1872年東京 日本橋
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2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
「ふくしまから世界へ~立子山の偉人・朝河貫一の歩み~」甚野尚志(早稲田大学)
資料:朝河貫一の立子山時代(立子山小学校長・鈴木喜助『朝河貫一』より)
父・朝河正澄について
朝河正澄は1844年(弘化元年)9月12日、二本松城の北の鉄砲谷の邸宅に宗形家の息子として生まれる。幼名を小彌太、のちに宗形幸八郎昌武と称した。10歳頃から同藩の小野派一刀流師範の日夏孫兵衛につき剣術を学び、また二本松の修学館で漢学と武技の修練を行う。1857年(安政4年)に父とともに藩の江戸屋敷に行き、江戸では儒者山田次郎八について漢学を学ぶ。その後、文久元年正月から二本松藩砲術師範の朝河照清につき砲術を学ぶ。
朝河家は代々、二本松藩士として藩主の丹羽侯に仕え、二本松の家中屋敷である郭内鉄砲谷の邸宅に住む。朝河照清は同藩の高木権太夫の姉ヤソと結婚し、一子、八太夫を儲ける。照清の子の照成は田口藩士松浦竹之進の長女ウタをめとり、家督を相続し長女イク、次女キミが生まれる。しかし照成は天狗党の乱で戦死し、ウタは未亡人となる。
戊辰戦争が起こると、朝河家の当主の照清も防衛隊の一員として出陣し、1868年(慶応4年)7月29日二本松落城の日、大手門前の戦いで壮烈な戦死を遂げた。9月23日に会津若松も開城し戦乱は鎮まるが、二本松の人々に苦難が襲い掛かったのはそれからである。戦争中、西軍に踏みにじられ田畑は荒廃し五穀は実らず、混乱に乗じて盗賊は夜と昼となく横行する。賊徒の汚名の下で討伐された士族の戦後の疲労困憊は悲惨の極みであり、家屋敷、財宝は焼失あるいは掠奪された。藩籍を奉還したので俸禄は受けられず、その日の食料もないどん底の生活となる。朝河家は照清、照成ともに戦死し一家の柱石を失い、邸宅も戦禍でことごとく焼け落ち、ウタと二人の娘、姑のヤソは苦難の幾月かを凌ぐ。
朝河一家はウタがこれを支えた。昼はお針の師匠となり、夜は、近所隣の仕立物や洗濯物、洗い張りを引き受け、わずかの賃金をもらい漸く生計を立ててきたが、それに同情した家中の者の世話で、宗形家の次男・幸八郎昌武を婿養子として迎え入れたのが、明治2年9月のことだった。昌武は朝河家に入り婿してから名前を功と改め、一家を背負うことになる。家禄は停止され、貯蓄はなく定職もない。さしあたり昼は手習い師匠となり、近隣の子弟に教え、夜は、うす暗いランプの下で唐傘張りの内職に励んだ。朝はうす暗いうちから、夜遅くまで一心不乱に働いた。しかし一家の生計を支えるのに十分な賃金は得られない。その頃に長男貫一が誕生した。功と改名した昌武はさらに名を正澄と改め、小学校教員の志願書を提出し、明治7年7月、伊達郡立子山小学校に赴任した。
二本松から立子山へ
立子山は戦国時代以後、蒲生、上杉、本多政長の領地になるなどの変遷はあったが、養蚕業が盛んで生糸、羽二重を産する関係から幕府領となり代官所の支配下に置かれた。いわゆる天領であったため直接統御されることが少なく、貢租賦役もゆるやかだったので遊び人も多く、風紀は乱れ、賭博は流行し、質素勤勉の美風は地に落ちていた。明治維新の時期、村民の生計は困難になり村は疲弊していた。村民の中には田畑山林を質入れし、先祖伝来の宅地建物を人手に渡す者もあるほどであった。
この立子山になぜ、正澄が教員として赴任することになったのか。それについては朝倉鉄蔵(福島県会議長を務め後に衆議院議員)の次のような述懐がある。
「私の父、鉄次郎は農業のかたわら地方の産物である生繭の専売斡旋をしておったので繭売込みのため、二本松の製糸会社・双松館に出入りし、佐野利八前社長や山田修氏などと親交があった。村に小学校を開設することになったとき、村の将来を考え、村の改良を図るには人心の教化が先決問題である。それには優良な教員を選ばねばならないが、村うちには適任者がおらない。昔から学問の盛んであった二本松には学徳の高い旧藩士がたくさんおられるであろうから一つ相談してみようと考え、親交のあった山田翁にその推薦を依頼した。事情を聴いた翁はしばらく考えておられたが、『そうそう、それには朝河正澄君が最適任だと思う。私も昵懇にしておるが同君はこのところの旧藩士で漢学の素養も深く、人格も高潔で申し分のない御仁だ』といった。本人に会い村の事情を語り希望の有無を伺った。山田翁のいわれたとおり立派な人格者であったから、村に帰って相談し一同の賛成を得た上、手続きをしてわが村に招聘したのであった。」
このようにして、正澄は立子山に赴任することになる。正澄が赴任した1874年(明治7年)頃、鉄道はもちろんなく、道路も車馬が通れるほどには整備されてはいなかった。一家は当座入用な家財道具を携え、夜具は人夫に背負わせ二本松から渋川、下川崎に出て飯野舟場で阿武隈川を渡り、西飯野から山道を上り下りして15キロを徒歩で歩き立子山入りした。
立子山での生活
立子山小学校の沿革誌には「明治7年8月7日、三等授業生・朝河正澄着任す、月給4円」と書いてある。前年12月に生まれた貫一は、生後わずかに200余日で立子山に移り住んだ。真夏の炎天に照らされながら、貫一を背負い通して同行したウタの労苦はどれほどであったろうか。村人たちが出迎えいたわってくれたものの、一家が仮教室に定められた大平山天正寺(曹洞宗)にたどりついたときにはウタの体は真綿のように疲れていた。
だが、一家には庫裡の一室を仮寓の場所として提供され、村人から温かい待遇を受ける。住職の円海和尚も何くれとなく世話を焼いてくれた。結局、正澄は1903年10月29日まで30年間、村の教育の中心となり、栄達を願わず平凡にしてしかも非凡な年月を村で過ごした。村を改良したのが正澄であり、立子山村は正澄の努力で1910年2月25日、優良村として内務大臣から表彰されるまでに至る。
立子山小学校の創設は、明治7年7月25日で、最初は生徒数が少なく、天正寺の客殿外に室52坪半を借り受け仮教室とした。朝河一家には庫裡の一室を提供した。正澄は博学多識、能筆家、武芸の達人であり、武士の礼節を守り常に羽織袴を着用し、端座して容姿を崩すことなかったので、「朝河天神」と呼ばれた。そして村の実情、村の習俗もわかってきて、正澄は懇切丁寧に教育指導の任にあたったので評判がよかった。その上、これまでこの村には、適当なお針の師匠がいなくて困りぬいていたので、裁縫に堪能なウタが来たので村の娘たちは大喜びし、農閑期には針子が室内に溢れるほど盛況となった。ウタの好評も正澄に勝るとも劣らない。ウタは村の女性の中軸となり裁縫を教え、とくに年末年始の農閑期は多忙をきわめていた。そのためか衰弱し亡くなってしまう。ウタの遺体は二本松の真行寺に葬られた。その後、子供たちは二本松からきた祖母ヤソに育てられ母亡き後の数年を過ごしたが、学校用係の阿部善次郎が伊達郡梁川町の天神社の神官関根備の妹・ヱヒを後妻に紹介した。
立子山小学校は開校当時、100人足らずの生徒数だった。円海和尚と二人で授業を受け持った。翌年の明治8年には在籍生徒数が187人に増え、成績優秀の者を授業生として手伝わせ天正寺の客殿では狭くなる。村民の献金を集め明治8年、村の中央の字竹の下19番地に校舎を新築した。地租改正で反対者もあり、経費調達が困難になり工事が中断されたが、翌年7月に開校式が行われた。南面した校長室には羽織袴で威儀を正した正澄がいた。北隣に住宅があり、貫一は5歳の夏から小学校時代、中学時代、早稲田時代も、明治28年(1895年)に渡米するまで約22年間、この場所を勉学と生活の場とした。
正澄の教育
正澄は教育では文部省編纂の単語篇、連語篇、小学読本、修身訓を教えたが、教える精神は文明開化のそれではなく、かつて学んだ儒教思想、武士道精神であった。また教授方法も上級生が下級生の学習を見てやり、卒業生中から成績優秀者を選んで助教にする程度のものであった。正澄が一番苦手だったのは、珠算と洋法算術である。生徒に対し非常に親切だったので父兄の信頼も高まる。立子山には就学しない者が相当いたが、開校当時は60余人であったのが、一年後、明治8年12月には生徒数、男95人、女39人、計134人となり、明治10年12月には男125人、女67人、計192人となり、明治13年には男128人、女99人、計249人となる。明治12年9月、正澄は六等訓導補になり、月給も10円になる。後妻ヱヒも村人と親しく交際し裁縫が上手だったので針子も室いっぱいになった。
少年・貫一への教育
ヱヒは貫一に本を読ませ、話を聞かせ、手を取り書かせた。内では知能を磨かせ、外に連れだしては山登りをさせたり、魚釣りに誘ったりして体を鍛えさせた。貫一は生来、虚弱であったが体も丈夫になる。早くから家庭教育を受けた貫一は、5,6歳ですでにその知能は、8,9歳の子供以上に進んでいた。5歳3か月で、まだ学齢には達しなかったが、明治12年4月立子山小学校に入学する。羽織袴を着用していた。一を聞いて十を知る子供だった。明治15年普通小学校を卒業し、明治18年中等小学校を卒業し、明治20年、高等小学校を卒業した。8,9歳のときに13,14歳の児童を凌駕し、貫一はいつの試験でも一番であり、進級の式には生徒総代で優秀賞をもらった。川俣や飯野で行われる比較試験には、貫一が立子山校を代表して出て、いつも最優秀であったので「二代目朝河天神」と呼ばれた。明治18年4月の小学校の中等第一級卒業に際して11歳4か月の貫一は、福島県より学力優等に付き、一等賞として懐中硯箱一個を与えられる。
正澄は貫一に、本読みの指導をするばかりでなく、立子山に残る伝説や二本松の地理沿革、戊辰の戦乱、二本松少年隊の奮戦、落城の模様、その後の苦難を説き聞かせ、将来には学者として世に出るように教えた。伯母・八重の縁につながる郡山の安藤家に生まれた安藤祐助、すなわち後の安積艮斉が学問好きで江戸に上り刻苦勉励して昌平黌の儒官になり天下の第一儒と推称されるようになった次第をこと細かに語り聞かせた。貫一の伯母八重は、二本松神社の神官安藤重宣の妻となっていて、この安藤重宣は郡山安積国造神社の神官安藤親重の孫であった。大叔父祐助は父親重とともに幼少時を二本松で過ごした。祐助は幼少から学問を好み藩儒について漢籍を学ぶ。江戸に出て佐藤一斉の門に入り大成し、昌平黌の儒官になる。安積艮斉はその号である。艮斉は史学に精通していた。貫一は伯母八重からも艮斎の人となりを聞かされ、また中学で艮斎の生家に出入りし貫一の向学心に拍車をかけた。
立子山天正寺の壁画
壁画は、貫一が誕生後、5歳の夏まで仮住まいした天正寺本堂の正面白壁に落書きした奔馬の絵である。春先でうららかな日に円海和尚が名木の南天を手入れしていた。それを眺めていた貫一は、老僧が手入れを終えて梯子を本堂右わきの白壁に片寄せたとき、父の机上から矢立を持ち出し、筆もとりあえず大小六頭の奔馬が髪を振るって競争する光景を描く。それは無邪気で雄渾な、5歳の児童が書いたとは思われない見事な筆致であった。描いたと大はしゃぎする貫一に円海和尚は驚く。しかし円海和尚は、この落書きはいつまでのこのままにしておくようにと言ったのでそのまま残った。
小学同級生の語る貫一君
立子山小学校の同級生であった藤原貞次郎氏は、博士の小学校時代について思い出話をしてくれた。貫一君は、身体は級中で一番小さい位であったが、立子山では唯一人の武士の子で、容儀端正で頭脳明晰であったから朝河天神と呼ばれた。いつの試験も成績一番で、学年末の授与式は必ず総代となり、優等賞をもらった。貫一君は非常に負け嫌いであった。相撲でも一度や二度の負けでは屈しなかった。—
父の喪に服す(貫一の第一回帰朝)
故国の地を踏んだ博士は、母校早稲田への挨拶もそこそこに、明治39年(1906年)2月23日、二本松に帰った。帰国の知らせがあってから、わが子の帰りを一日千秋の思いで待ち焦がれておった父は、十年ぶりに見る我が子の見違えるばかりの出世した姿にただ涙するばかり、固く握り合った手はいつまでも離れなかった。貫一はあまりに老いた父のまなざしを見るにつけ、年来の辛苦を思いやり、天涯万里の異境にあって思いながら孝行もできえなかったことを詫びるとともに、父の心を安んずることに専念した。
—-老父は突然、腸ねん転を起こし、9月20日61歳を最後として数奇な運命の生涯を終わった。修徳院釈正澄仁慈居士の遺骸は菩提所、真行寺の向山墓地に葬られた。三日、七日の供養を済ませて、貫一は、阿武隈河畔を辿って立子山村を訪問し、幼時起居した天正寺を訪れて、祖母ヤソや、継母ヱイの墓に参詣供養して同寺に一泊し、御代田から餡餅や土産物をもって、わざわざ会いにきた姉キミや、参集した村の友人、知友と楽しいむかし語りに一夜を明かした。(⇒天正寺に宿泊)翌日は、立子山小学校講堂で、朝河博士帰朝大歓迎会が催されることになっておったから、早起きした博士は、立子山役場やそれぞれに挨拶した後、同会に臨んで村民一同の称賛歓迎に応じて一場の演説を行い、
「—–米国の大学生の勉学の度合いは、日本のそれに比べて少ないようであるが、かえって多い。自分が学んだり、教えたりしたダートマスやエールの両大学やその他自分が知っている大学の学生の勉学は、自分が見た今日の日本の学生よりははるかに多く勉強しておる。また日露戦争については、英国が米国の援助があったから、戦争に勝つことができたのであり、日露の談判についても日本では不満を爆発させて焼き討ちまでやったが、自分はオブザーバーで聞いておったので、スパイと誤解されたりした。日本の新聞記者も世界外交の檜舞台で特ダネを拾うには、せめて英語位は、自由自在に喋れなくては到底任務を果たしえない。自分が英語で応対してやったら、蔭で大憤慨したそうだが、これから勉強するものは大いに英語を勉強すべきだ。」
というような話をした。終わってから座談会を開き、「教育のことならなんでも聞いてほしい」とのことであったが、学識の隔たりがはなはだしいので何を聞いてよいか分からず、暫くは沈黙が続いたが幾人かから生活のこと食べ物関係の事などばかりを聞いたので博士に笑われたりした。菅野吉重氏などが日露談判の模様について質疑応答して会を閉じたのであったという。飯野まで多数に見送られて川俣へ行き渡米の際特別にお世話になった渡邉熊之助(後の弥七翁)に挨拶し、再び二本松に帰り、郡山に下車して母校安積中学校を訪問し生徒一同に正しい英語の発音などを指導し印象を残して東京に帰り、母校早稲田の英語の講師として英文学を、高等師範部には英語学を講義しながら、エール大学から委嘱された東洋、日本の史学に関係ある図書、記録、絵画、什器などを蒐集したのであった。
正澄の退職
明治36年(1903年)10月29日、立子山小学校長を退職する。疲弊のどん底にあった立子山村が風教大いに改まり、明治43年2月25日天下の優良村として、内務大臣から表彰の栄誉に預かりえた礎石は、朝河校長によって築かれたものが多いことを立子山村民は、今も感謝している。朝河校長に対する感謝の念は、先生永年の功績に対して、住宅を建築して永住していただくか、あるいは、何か記念品を差し上げるべきかと、いろいろ協議したが、「一応先生のご意向を伺うべきである」ということになり、先生に相談したところ、「親戚旧知のある日本松に帰る考えだ。記念品は金側時計が望ましい」とのご意見であったから、早速、協議して弟子7百余人応分の醵金で大型金側懐中時計ならびに金鎖を購入し、大河内儀平以下醵金者全部の名簿とともに先生に贈呈した。⇒「報恩之辞」
立子山村の改良
1874年(明治7年)、正澄が立子山小学校長になる。住職円海とともに教育指導にあたる。青年指導の夜学会を開く。妻女には裁縫を教授。児童生徒のみならず一般村民の教導薫化。
県会議長の朝倉鉄蔵は、父、鉄次郎とともに、大の朝河校長の後援者であった。地方の改良、自治の振興を思い、優良村の実績を見聞し、立子山村のために、自ら陣頭指揮の任に当たる。
明治33年4月27日、立子山村長に就任し、直ちに村治の大改良に着手する。伊達郡茂庭村から船尾與一を登用し助役とし、朝河校長と三巴となって自治の振興、産業の奨励、経済の立て直しに邁進し始めた。朝河校長による徳化が浸透していたので、村民も自覚して家業に精励するようになり、若い者は夜遊びをやめて早起きを申し合わせ、酒好きの者は茶屋畑出酒をやめて家内の酌で一本かぎりとし、町に出るときには必ず野菜薪炭その他を持参し買い物の代とし、—– 納税成績は年一年と向上した。たとえば、冠婚葬祭には結納、馳走、持参金、お悔やみはお返し物をしないことを申し合わせ、時間と費用の節約を図った。能率増進のため、時の観念を明確にすべく朝、昼、夕の三回、時を報ずること、早起きを奨励し、家回りの清掃、草刈に精出すこと、節約貯蓄や協同互助の機関として立子山村有終社(信用購買販売利用組合)を設立し、村の金融面を円滑にし、村の産業を奨励した。徳成会を設けては、青年男女の修養研鑽の道を開いた。朝倉鉄蔵村長は明治36年2月、衆議院議員に立候補して当選し、村長を辞する。後を継いだ佐藤多三郎、船尾與一の両村長が継承した。
天下の優良村となる
立子山村は、明治43年2月25日に選奨29箇町村の一つとなり(全市町村中の1%にも達しない)、時の内務大臣平田東助の名をもって表彰を受けた。
「福島県伊達郡立子山村 協同輯睦率ヰテ克ク公共ノ事ニ謁クシ整理経営共ニ見ルヘキモノ少カラス 今後尚一層ノ奮励ヲ以テ互ニ相協力シ益々其ノ実績ヲ挙グヘシ 茲ニ金五百円ヲ授与ス」
(以上は、鈴木喜助の原稿からの抜粋を元にした)朝河貫一博士没後70年記念講演会in立子山 天正寺、2018年10月13日(土)