1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
東アジアの平和問題として日韓和解の問題を追及してきた研究者として、早稲田大学が中心になった「和解学の創成」に立ち会うことができ、嬉しく思う。東アジアの平和の問題は、未だ停戦協定に根を張る軍事的緊張の続く朝鮮半島に生まれた人として、人生をかけて追い続けなければならない課題である。日韓和解は、東アジアの平和に至る扉をあけてくれる幾つかの鍵のなかの一つである。長く、日本の政治外交と日韓関係を研究テーマにしてきた人として、日韓和解の問題は、東アジアの平和構築と朝鮮半島の平和造成の道を斬り開くためのもっとも重要な鍵であると考えている。
日韓和解の問題は、冷戦によって封印された脱植民地化の諸課題を総体的にかつ集約的に体現している。朝鮮戦争の渦中に開催された最初の日韓会談で、韓国は日本に「和解しよう」と呼びかけたが、日本はこれに応えなかった。戦争とそれに続く冷戦は、「和解なしの国交正常化」を常態化した。冷戦が崩壊するなか、これを異常と認識するのは論理的に当然の帰結であった。その意味で、日韓関係において和解は、「戦争と平和」の公式で解く「帝国と植民地」の問題である。従って、日韓和解のための当面の課題は「日韓間の歴史の清算」であるよりは、「東アジアの平和構築」である。それは、真実の追及よりは、政治の熟慮を要求する。「和解学の創成」が、「正義ある和解」を求める上で「重層的な世界」における「正義の複数性」を承認することから可能だとする認識は、このような問題のあり方を反映していると思われる。
問題は「正義の複数性」を承認した後の対話である。「正義の複数性」を承認すれば、「唯一の正義」を主張することも正義の一つであり、それ自体は間違っていない。しかし「正義の複数性の承認」が唯一の正義と化し、「正義の唯一性」を主張することを容認しなくなるのはよくあることである。その陥穽をいかに回避するかが「正義の複数性」を承認した後、「正義の唯一性」にこだわる相手との対話を和解に至らせる關鍵になる。
また「正義の複数性」という観念から引き出せるもう一つの命題は、「和解」が優れて「政治」であるということである。「和解」を追及するとき、これを常に意識しなければならない。「和解」は、それ自体が目的である聖なるものでなく、権力と支配が横溢する俗なる世界に属する。権力関係を意識しない和解に抵抗することは可能であり、権利でもある。韓国人として、「日本発の」和解学の創成を、一方で歓迎しながらも、他方で疑念を持たざるを得ないのは、そのためである。「和解」の主体として日韓が対等に立つことは、日本発の和解学の創成の出発の時点で必ず確認しておく必要がある。和解を求める側と、受け止める側が対等に立つことが、何を意味し、いかに可能か。「和解学」の根本を日韓和解は問うている。
対等な主体間の和解には、もう一つ難しい問題が孕んでいる。加害と被害の関係を明確にすることと対等な主体間の問題として和解を進めることの関連である。日本の被害者意識は日韓和解の障害であるとよく指摘される。しかし、真なる意味の被害者意識は、加害者意識に至る導線である。被害を被り苦痛にもがいた人でなければ、他人の苦痛を理解することはできない。被害者意識こそ、加害者意識に目覚め、世界のあらゆる被害者と対等な立場に自らを低める可能性である。和解を妨げるのは、被害者意識そのものではなく、被害者意識から加害者意識へ発展する経路が遮断されている構図である。日本社会に独特の被害者意識と加害者意識の複雑な絡みの構図は、パラドキシカルであるが、「日本発の」和解学の創成が普遍性を獲得する条件となっている。
なお、被害と加害の複雑な絡みは、日本だけでなく、「戦争の世紀」を生きたほぼ全ての国の共通の問題である。従って、「日本発の」和解学は国際的なネットワークのなかで行われることで初めて、加減のない現実に則した、バランスのとれた内容を獲得することができるだろう。