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「和解」の位置づけ
私のこれまでの「外交」と「研究」の仕事人生は、思えば『和解』の問題がその最大のテーマであった。その基本構造は比較的単純明快であり、それは、日本が戦った太平洋戦争の三重構造を基礎としていた。
三重構造とは、(A)米英との戦いは、基本的には帝国主義列強の一員としての対等な戦いであり、(B)その前に日本帝国に併合した台湾・韓国に対しては植民地支配者として、更にどこに起点をとるかについては諸説あるとしても、中国に対しては日本が侵略国として、「加害者」であり、(C)19世紀中葉以降様々な戦いの経緯をへてきたにせよ、こと太平洋戦争については、終戦の調停を求めていた日本に対し、有効な中立条約を破って侵略してきたソ連との関係については、「被害者」の立場に立ったということである。
「和解」の問題の基本構造は、この戦いの三重構造によって決められることとなった。
三つの構造の中で、実は最も難しい問題を内包してしまったのは、(A)の「帝国主義列強同志の対等な戦い」をしたはずの米英との関係にあった。なぜなら、戦争に負けた後の日本にとっては、敗者としてそれまでの国際社会において受け入れられてきた負荷、領土の割譲と賠償金の支払いはやむをえざるものであった。ところが第二次世界大戦は国際法を含め戦後処理の転換期に遭遇した結果、日本は単なる敗戦国ではなく、東京裁判によって「平和に対する罪」即ち「侵略戦争を行った罪」という断罪をうけた。これは多くの日本人にとって受け入れがたい事後法による断罪であり、かつ、勝者の裁きであった。
戦後日米両国は、この戦後処理の矛盾を表面化させずに、多数の人々の努力によって「同盟関係」と呼ぶにふさわしい関係を作り上げてきた。そのことを多くの日本人は今、肯定的に評価しているように思われる。しかし問題の根源がなくなったわけではなく、その意味で、2015年4月29日の「太平洋戦争で死んだ米兵の魂によりそった」米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理の演説は「和解」への道程として、極めて重要な意味をもっている。更に、2016年5月27日のオバマ大統領の広島訪問、同年12月27日の安倍総理のハワイ訪問で、原爆ドームと真珠湾への相互献花が行われたことは、「和解」への更なる大切な道程だったと思う。
(C)他方、日本が「被害者」の立場に立ったソ連との関係では、冷戦の際中は日本にとっての国益は、「被害者」としての怒りを「四島一括即時返還」「領土が解決してから経済協力(入り口論)」という最も強い立場を強調することによって表現された。ところが、1985年ゴルバチョフ書記長が登場してから「加害者」たるソ連が立場を柔軟化、国際社会において武力不行使と国際協調を旨とする「新思考外交」を提起し始めた。日本政府の中にもこれに応じ、領土問題について相互譲歩による問題解決に応じてもよいのではないかとの見解が浮上した。この動きは、ロシア連邦成立直後のロシア側秘密提案(1992年)の拒否、プーチン大統領登場直後のイルクーツク合意(2001 年)の失速によって大きく頓挫した。しかしながら今、中国の巨大な台頭を前に、ロシア・日本相まって相互譲歩(引き分け)による領土問題の解決への努力が継続しているのである。
日本政府の「和解」に向けた対応
さて、条約上の処理を終えた日本政府と日本国民の間では、1980年代以降「加害責任」を問われる中で、敗戦後70年の間、政府としても国民としても、この問題をどう認識するべきかについて懸命に考え続け、発言してきた。
にもかかわらず、歴史認識問題はいま、見方によっては過去最悪のレベルで日本と中国・韓国との間の論争を惹起している感がある。その主な経緯は何で、今日本政府はどのような立ち位置にいるのか。
敗戦後日本では、敗戦から占領、そして東京裁判における有罪判決とサンフランシスコ平和条約11条における判決の受諾の後、①戦前の日本の名誉の立場に立って再構築しようとする「右派」と、アジアに対する加害の歴史を見直さなくてはいけないという「左派」の間で、民族としての魂の尊厳を求めた厳しい議論が行われた。
②1995年の内閣総理大臣談話(いわゆる「村山談話」)においてとにもかくにも、一つの共通の結論に達している。国内政治の観点でいうならば、村山談話は、社会党の総理大臣と大部分は自民党議員による閣僚という異例な組み合わせの中から生まれたという側面もあるが、だからこそ、この談話は「右派」と「左派」との共通意見として、日本の歴史認識問題の重要な基盤を構築したのである。
③1995年から2015年までの20年間、歴史和解を主題とする日本政府と関連諸国、即ち、中国・韓国・北朝鮮・イギリス・オランダ・アメリカに対するすべての交渉において、村山談話はその骨格をなしてきた。この間外務省において歴史認識問題に関連して仕事をした経験のあるものなら、外務省が村山談話に足を向けて眠れないことは、熟知しているはずである。
私自身も、村山談話が発出された1995年8月、駐ロシア大使館次席公使として勤務していた。「植民地主義」と「侵略」をキーワードとして「痛切な反省と心からのお詫び」を表明した談話を一読して、「これは勇気あるものであり、今度はロシアが日本に勇気を示す番だ」という趣旨を、当時モスクワでよく売れていた週刊誌に投稿した。
④それだけに、2015年8月14日終戦70周年を期して発表されることとなった安倍談話がどのような内容になるかは、非常な関心を持ってフォローしていた。安倍総理はこれまで、村山談話以降「侵略」という言葉を使う傾向を公に批判していたこともあったし、談話発表に近づくにつれ、歴代内閣の立場を「全体として引き継ぐ」と言いつつ、ではその中で何を引き継がないのか、引き継ぐのかといった点が、不分明となっていたからである。
さて談話発表を自宅のテレビを通じて注視し、全体として、ほっとした。談話は、村山談話の最も大事な点と思われる、加害者としての歴史の直視と責任の認知、それに対する謙虚な姿勢を受け継いでいたからである。談話として最も重要な場所を二カ所あげて分析しておきたい。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました……我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました……こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります
この最初の部分は、通常でいう村山談話を受け継いでいる部分と言ってよいと思う。鍵になるのは、「痛切な反省と心からのお詫び」であり、これを表現した「歴代内閣の立場は、今後とも、揺るぎない」とした点にある。
もちろん、では、何について述べているかというと、「先の大戦における行い」についてである。しかし、「侵略」と「植民地主義」はその関連で述べられてはいるが、厳密には「先の大戦における行い」とどのように関連しているかは、明確化されていない。
厳密な歴史の事象には入らないという意味で、この態度は、村山談話と共通するものがある。村山談話が当初「左派」から最も批判されたのは、「植民地主義」と「侵略」という言葉は確かに使われているが、それがどこに対して行われたかについての言及がないことであった。また、ここで使われている「侵略」と極東裁判で使われたような国際法の用語としての「侵略」とどういう関係にあるかも明確にされてはいない。
村山談話は、法的でも歴史的でもない、日本人の多くが理解し共感できる一般的・直感的な内容を語ったからこそ、その後国民全体のコンセンサスとして機能したのではないか。このことを、私は、ワイツゼッカーの背景にあるカール・ヤスパースと、村山談話の背景にある日本的な発想の源としての鈴木大拙を比較することによって説明しようとした。拙著『歴認識を問い直す』(第四章「中国の場合」、角川新書、2013年)を参照願いたい。
⑤さて、安倍談話がこれから引き継がれるに足る談話であるもう一つの理由は、村山談話とは違った切り口で、日本人の多くにとっておそらくは受け入れられるはずの全く別の視点を語った点にあると思う。それが以下の部分である。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
この部分の前段は広くよく知られている。戦争とは全く無関係に生まれてきたはずの若い世代にあらかじめ謝罪を行う宿命をあたえてはいけないという指摘である。談話発表の時から、内外の注目を集め、日本の「右派」からはよくぞ言ったと賞賛され、「左派」や国外の歴史リベラルからは、安倍総理の歴史に対する無責任主義として強い批判が浴びせられたのである。
誠に奇妙なのは、後段に対する言及が、内外共に、日本の「右派」からも「左派」からも、まったくと言ってよいほどないことである。
理由はしかし、極めて明確で単純だと思う。「右派」からすれば、後段は、「戦争責任についての歴史認識問題は終わっている」という彼らの立場を否定することになる。このような立場は見たくないし、言及せずに忘れ去るにしくはない。「左派」からすれば、「謙虚な気持ちで過去を受け継ぐ」という主張は立派であり、これを認めるなら安倍総理を評価せざるを得なくなる。「左派」は一般に安倍総理の外交・安保政策を評価しないので、この部分は、やはり、言及せずに忘れ去るにしくはないということになる。
中国・韓国との「歴史和解」の現状
冒頭で述べたように、歴史認識問題をめぐって日本は今韓国とも中国とも極めて難しい問題をかかえている。
韓国との間では2015年安倍談話をうけて、当面最大の懸案と言われてきた慰安婦問題に関して、同年12月28日両国外務大臣の間で、画期的な合意が行われ、日韓の和解が整ったかに見えた。
しかし、この合意を実現した朴槿恵大統領は、崔順実スキャンダルで弾劾訴追、17年3月に罷免失職、5月に後任として選出された文在寅大統領は、再交渉を求めずとも政策の根本を「被害者中心主義」におくという立場をとった。この立場が今後どのように具体化するかは定かでない。
この間徴用工問題が顕在化しつつある。12年5月韓国最高裁番所小法廷は、65年日韓合意によって問題解決していないという元徴用工の見解をいれ、問題は今韓国最高裁判所大法廷に再上訴されている。
文在寅政権は盧武鉉政権の直系であり、イデオロギー的・法理的反植民地主義の思想をもつ法曹界の強い支援を受けている。18年のいずれかの時点で、新日鉄、三菱重工を含む多数の日本企業に確定有罪判決が出る可能性なしとしない。
中国との関係における歴史認識も状況は更に複雑である。これまでの日中歴史認識問題は、概ね靖国神社参拝問題と、すでに歴史問題化されてしまった尖閣問題の二つであった。ところが実際には、11年上海交通大学における「東京裁判研究センター」の開設、15年ユネスコ記憶遺産における南京問題の登録、16年上海師範大学「慰安婦問題歴史博物館」の開設など中国の歴史対日包囲網は遥かに広く深くなっている。17年「一帯一路」の経済面での協力にふみきったことをきっかけに、この年は年二回の安倍・習近平会談、18年5月の李克強首相の訪日と日中間の対話は進捗しているが、これからの両国関係の基本が崩れ始めれば、いつこういう多方面からの歴史認識問題が火を噴くかもわからない脆弱性があるといわざるをえない。
現下の日韓・日中の歴史認識問題は、単なる「加害者」と「被害者」の間での「どこまで被害者である自分が納得のできる形で加害者である相手は謝ったのか」「どこまで加害者である自分が謝れば被害者である相手は納得するのか」という論争の域を超えてしまったように見える。根っこにある歴史に対する道徳的・倫理的な見方を超えた、それぞれの国の国益をかけたせめぎあいの渦中に問題はなげこまれているように見える。
そういう困難な文脈の中で、日本として、この歴史認識問題そのものに対して、どのように対処したらよいのか。
第一に、韓国と中国から提起される問題に対して最も肝心なのは、歴史認識問題に対する日本としての不動の姿勢に立ち、それを穏やかに堅持することだと思う。
第二に、不動の姿勢とは何か。それは、否定しようがない「加害者」の立場を受け止め、そこから発する謙虚さに立つと同時に、事実に反する批判や過大な要求は受け入れることのできないことを粛々と伝えることではないか。
では第三に、政府として何にそのような立場を依拠せしめられるか。言うまでもない。ここでいう安倍談話の「謙虚な気持ちで過去を受け継ぐ」という立場こそ、これからの日本の最善・最強の歴史に対する立場になるのではないだろうか。
最後に、ここでいう「謙虚な気持ちで過去を受け継ぐ」とは、決して総理・政府のみの課題ではなく、国民一人一人が自らの課題として考えるべき事柄だということである。
「和解学」がめざすもの
さて、「和解」という観点から筆者がこれまで考えてきたことはおおむね以上のようなことであった。基本的に戦争における役割を「加害者」と「被害者」に区分けして考え、「加害者」からの謝罪と被害者からの許しによって「和解」が成立するという考えである。現実の世界では、自国の利益にねざした「力」の要因によってこの構造は様々に変形されるが、ここが基本と考えてきた。
では「和解学」のよって立つ構造は何か。少なくとも出発点としての「和解学」の基本構造として、浅野豊美教授は、以下の「和解三原則」として提案している。
この三原則が成り立つ場として「ネーションの創造を可能としている記憶や正義・感情の社会的な機能への共通認識と、その共通認識の上に三原則に基づいた実際の歴史的な事実への議論が実際にある種の均衡を保ちつつ行われ、ネーション相互の関係の基礎となる新しい道徳・礼儀・規範が生み出される議論へと昇華していくことが必要である」と主張される。
極めて興味深い提案である。しかし、筆者がこれまで携わってきた「和解」をめぐる葛藤から考えると、現在の東アジアにおいて、「和解学」のアプローチが本当に成立するのか、少し考え込んでしまうものがあった。
特に、和解に至る葛藤の中で、「被害者」の立場に立つ中国と韓国で最も受け入れ難いのは「正義が複数ある」という考え方なのではないだろうか。一つの例として「南京事件」を考えてみたい。
南京事件が発生したのが1937年12月。東京裁判で日本軍が行った残虐行為の代表的な例であり、1980年代東京裁判論争とともに日本では歴史認識論争の中心としてとりあげられた。しかし、1997年アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』によって議論は再燃、2015年10月中国からの提起によりユネスコ記憶遺産に登録され、いまだに論争は終結していない。
中国から見た正義としては、南京に建設された「南京博物院」に顕示されている「虐殺数30万」が最も真実に近いとされている。他方日本における「右派」から見た根強い正義は、「虐殺説」は共産党とこれを支持する欧米協力者による捏造であり、いわゆる「南京虐殺」は存在しなかったというものである。筆者の見る限り、この両説のいずれかを信じている人たちが「正義は複数ある」という見方を享有する可能性は極めて低いように思われる。
しかしここに、例えばもう一つの正義がある。それは、旧陸軍及び陸上・航空自衛隊幹部の親睦団体「偕行社」が、80年代前半日本で南京事件についての諸説が華々しく報道された時に、自ら調査を行うことを決意し、1983年10月から資料収集と調査を実施し、機関紙『偕行』の1985年3月号に掲載した主要点以下のとおりの結論文書に示された正義である。
「一万三千はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数字である。日本軍がシロではないだろうと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれであるが、この膨大な数字を前にして暗然足らざるをえない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量処理には弁明の言葉がない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない」
筆者のこれまでの中国人との対話において、南京事件に話が及ぶときに筆者はこの時点で『偕行社』が示した正義を私自身の正義として、また、私の見るところ多くの日本人の心にある正義として説明した。これに対して中国側から再反論を受けた記憶はない。
正義の多様性が認められるならば、「国民感情を近づけるように他国民を説得する」ことにはなにも難しいことはないと思う。自ら信ずる正義について、「国民感情を近づける」という補助線をひいたうえで、辛抱強く相手側を説得していくことは必ず可能なはずである。
「個人に対する尊敬を集団に広げる」ことにも何らの困難さはないと思う。信ずる正義の立場に立った時に、相手国人であろうと、自国人であろうと、または第三国の人であろうと、人間として尊敬に値する人は必ずいるはずである。その人に対する尊敬を広い集団に対する尊敬にひろげるという補助線をひくことは必ず可能なはずである。
「和解学」は「和解」の問題を解決する道標足りえるだろうか。
足りえるのではないか。
南京事件をめぐり前述の三つの正義の考え方が成り立つということは、正義について複数の考えが成り立つことを端的に示しているように思われる。
しかも、「正義の複数性を認める」という発想は、どこから生まれるのか。
自らの正義が何かを熟考すべきは当然のことである。そこから、複数の正義を考えるということは、相手の立場に立って、相手の言う正義は何かということを熟考することから始めなくてはならない。ここに少なくとも二つの正義の立場に対する根本的理解が生まれる。二つの立場に対する理解の中から、第三の正義、すなわち自分も相手も受け入れられる正義が生まれるかもしれない。
そう考えるなら、「相手の言う正義について熟考する」ことが「和解学」の出発点でなければならないことになる。
筆者は、日本がこれから中国・韓国・世界と歴史認識についての態度をとっていくときに、安倍談話の核心ともいうべき「謙虚な気持ちで過去を受け継ぐ」ことの重要性を述べた。ここにいう「謙虚さ」とは、相手の話を聞き相手の立場・思想・気持ちを理解しようとするところから始まると考える。これは、「相手の言う正義について熟考する」ことと同義である。
「和解」のための行動として現在の日本が到達している最高峰たる「謙虚さ」への要請は、期せずして、「和解学」成立のための出発点と一致しているのではないだろうか。
【本稿の概要は『ワセダアジアレビュー』2019年第21号に掲載されている】