1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
Confrontation and Reconciliation between Iran and Israel
聖学院大学政治経済学部政治経済学科
教授 宮本悟
Satoru Miyamoto
●民族間の対立に加えて宗教間の対立の要素が入ると、さらに和解は難しい。
●国際環境変化で和解が成り立つこともある。
●民主化によってむしろ対立することがある。
国際政治の舞台では数多くの国家間の対立があるが、2国間だけでなくある地域全体を巻き込む大きな対立もある。イランとイスラエルの対立もその一つである。両国ともに、相手が非民主主義の独裁国家であり、核兵器を開発あるいは保有していると批判している。現在、イランとイスラエルは、和解しようという動きすら見えない。
イランとイスラエルの対立は、他の中東諸国にも大きな影響を与えている。イランは、イスラエルと対立するガザを拠点とするハマース、レバノンに拠点を置くヒズボラを支援していると考えられている。イスラエルとハマースやヒズボラの紛争は、「イランとイスラエルの代理紛争」と呼ばれることもある。また長らくイスラエルと対立しているシリアのバッシャール・アサド政権も、イランの支援を受けている。反面、イスラエルは、イランと対立するサウジアラビアに接近している。そのサウジアラビアは、エジプトやバーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)と共に、イランと融和的な関係にあるとして、2017年6月5日にカタールと断交するに至った。国境を接していないイスラエルとイランの対立は、その周辺諸国に大きな影響を与えているのである。
中東諸国の対立には、民族対立の要素がある。イスラエルの主要民族はユダヤ民族であり、イランの主要民族はペルシャ民族であるため、異なる民族だから対立しやすいという見方もできる。しかし、中東諸国の対立は、民族対立だけではなく、宗教対立やイデオロギー対立、領土対立、歴史認識をめぐる対立などが重層的に重なっている。イスラエルとイランの対立も民族だけでは説明できない。そもそも両国とも、中東のマジョリティーであるアラブ民族との関係すら一貫していない。イスラエルは建国当時にアラブ諸国全体と敵対していたが、現在ではいくつかのアラブ諸国との関係を改善した。イランは1979年のイラン革命までアラブ諸国全体と穏やかな関係を保っていたが、その後にいくつかのアラブ諸国と敵対している。現在、イランやイスラエルに対してアラブ諸国は統一した態度を見せていない。中東での対立が民族だけでは説明できないことを示す一例である。
中東の対立では、民族だけではなく、宗教も重要な争点である。イスラエルにおける主流の宗教はユダヤ教であり、イランの主流の宗教はイスラム教のシーア派であるため、異なる宗教だから対立しやすいという見方もできる。2017年12月6日にドナルド・トランプ米大統領がイスラエルの首都と宣言したエルサレムの問題が、民族だけでなく、宗教対立がいかに中東で重要であるかを示している。もともと、イスラエルが建国される前である1947年11月29日に国連総会で採択されたいわゆるパレスチナ分割決議では、ユダヤ民族国家とアラブ民族国家とは別にエルサレムは国連管理下の国際都市になる予定であった。実際には1948年5月14日のイスラエル独立宣言にともなう第一次中東戦争で、東部をアラブ民族国家であるヨルダン、西部をユダヤ民族国家であるイスラエルに占領された。1950年にはイスラエルが首都に定めた上、1967年の第三次中東戦争で全エルサレムがイスラエルに占領されて、現在に至っている。
イスラエルの首都をエルサレムとして認めることは、国連総会決議や民族対立の観点から望ましくない。しかし、それに加えて重要なのは、エルサレムがキリスト教とユダヤ教、イスラム教の聖地であることである。それぞれの宗教を象徴する建物もエルサレムの旧市街に集まっている。
トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都として認めたことを、イスラエルは歓迎しているが、イランではアメリカ批判を強めている。民族対立だけであれば、エルサレムがイスラエルの首都であるかはイランに大きな関係はない。イランがアメリカ批判を強めるのは、民族対立だけではなく、エルサレムがイランの主流の宗教であるイスラム教の聖地でもあるためである。宗教対立は中東諸国間の和解をさらに難しくする要素の一つである。
ところが、民族や宗教の対立を超えて、イランとイスラエルが蜜月な関係の時期があった。つまり和解していた時期があったのである。パレスチナ分割決議が1947年に国連総会で採択された時に、イランは反対票を投じた国の一つであったが、イスラエルにそこまで敵対的であったわけではない。1948年5月14日にイスラエルが独立宣言すると、イスラエルに対してアラブ諸国が宣戦布告をして第一次中東戦争が勃発したが、イランはイスラエルへの宣戦布告をしなかった。むしろ翌年からはイスラエルとの国交樹立を模索し始めた。1950年3月6日にイランは事実上イスラエルを国家として認めることになった。正式な発表はされなかったが、イスラエルを国家として認めたことは国内外で大きな反発を招いた。にもかかわらず、イランはイスラエルを認めたことを撤回しなかった。
イランとイスラエルが蜜月関係になるのは、ソ連という共通の敵ができてからである。1953年8月19日にイランのモサデク内閣が英米の関与したクーデターで崩壊すると、イランでは親欧米派のパフラヴィー国王(シャー)が専制的に政府を主導するようになったため、ソ連との対立を深めていった。一方、エジプトとシリアがソ連の軍事支援を受けるようになると、イスラエルはソ連の脅威にさらされた。ここにイランとイスラエルはソ連という共通の敵を持つに至った。この国際環境の変化によって、イランとイスラエルは、経済、安全保障、情報を共有する半ば同盟のような関係になっていく。1963年からイランの西欧化・近代化を目指した宗教色が薄い「白色革命」は、両国の関係をさらに強めた。両国の外交関係は非公式のままであったが、イランはイスラエルに石油を輸出し、イスラエルはイランの軍事力増強を助けた。その一方で、イラン国内では、反西欧と反シャーの動きとともに、反イスラエルの動きも高まっていった。しかし、専制的なシャーの下では、そのような動きは無視されていった。
1979年にイラン革命が勃発して、シャーの専制政治が崩壊すると、イスラエルとの関係は悪化することになった。1979年2月13日に反体制派によって樹立したイラン臨時政府は、イスラエルと2月18日に断交し、4月1日にはイラン・イスラム共和国の樹立を宣言した。さらに、11月4日にイスラム法学校の学生たちが首都テヘランにあるアメリカ大使館を占拠したことで、1980年4月8日にアメリカとも断交に至った。イラン革命は、専制君主制が崩壊して選挙システムが導入された一定の民主化プロセスであった。しかし、民主化プロセスが始まると、それまで無視されていた反イスラエルや反西欧感情が噴出して、イスラエルやアメリカと断交するに至ったのである。
国際環境によって、かつて半ば同盟関係でもあったイランとイスラエルであるが、現在は敵対関係にある。2018年2月10日にシリア領内からイランの無人機がイスラエル領空に侵入したので、イスラエルの攻撃用ヘリコプターが撃墜し、イスラエルの戦闘機がシリア領内のイラン施設を空爆した。すると、イスラエルの戦闘機の1つがシリアの地対空ミサイルによって撃墜された。イランとイスラエルの敵対関係は、軍事的な対立でもある。これがかつての半ば同盟関係であったとは考えにくいが、その対立を生み出したのは、民族対立や宗教対立であり、そして民主化でもあったのである。