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「『親日台湾』と日本の植民地責任」 天江喜久(台南・長栄大学 台湾研究所副教授)
著者近影 |
台湾は言わずと知れた「親日国家」である。多くの台湾人が日本の食、文化、風土を愛し、年間400万人以上の人が日本を訪れている。東日本大震災の際には、200億円を超える義援金を供出し、日本人を驚かせた。しかし、台湾の親日ぶりがことさらに注目されるのは、台湾が韓国同様、かつて日本の植民地だったという事実に依拠したものである。すなわち、「親日台湾」はしばし「反日韓国」のアンチテーゼとして位置付けられているものだということだ。日本統治下において、インフラが整備され、産業が発達し、生活水準が向上した一方で、植民者と被植民者間の差別が日常化し、同化を強要され、主体性が去勢された点は台湾と韓国は大同小異であるといえる。またアジア太平洋戦争中は、多くの被植民者が軍人軍属として動員され、多大な犠牲を強いられた点も同じである。とはいえ、戦後補償に関して言うならば、台湾は韓国以上に不十分な処置を受けている。
では何ゆえに台湾は「親日」なのか?台湾人は帝国日本の植民地主義の罪を赦したのだろうか?それを解くためにも、「親日台湾」イメージの裏に隠れた日本の植民地責任について検証してみようと思う。
結論から言ってしまえば、日本は決して赦されたわけではない。植民地責任、戦争責任を求めている人たちは、少数ながら今でも台湾にいる。存命中の元台湾籍日本兵(従軍看護婦を含む)の中にも、日本の戦後処理に対して強い不満を持っている方も少なくない。また、敗戦によって、日本国籍を選択の余地なく喪失させられた三名の元日本兵が、2019年に国籍回復を求めて日本政府を相手に訴訟を起こしている[1]。さらに、慰安婦問題にしてみても、韓国に対しては安倍政権によって2015年12月に補償合意がなされたのに比べ、台湾の場合は、元慰安婦の正義を求める声に日本政府は耳を傾けることをしていない。つまり、「日台友好」の裏で、「戦後」が未だ訪れない台湾人たちがいるのである。
「元日本人」のポストコロニアル
戦後の台湾人は実に大変な思いをしてきた。皇民化政策の下、同化を強いられ、天皇のために命を捧げるように教育、思想改造されたにも関わらず、敗戦と同時に日本に棄てられた。日本からしてみれば無条件降伏であるから、致し方のない選択だったとも言えようが、それでも決して「泣く泣く手放した」というものではなかった。それでは台湾人は「棄てられた」と嘆いたのかと言えば、これはどちらかというと後知恵といった方が正しい。終戦当時は、植民地統治のくびきから解放されたのを喜び、中国への復帰を歓迎するムードが一般的であった。昨今よくみられる「日本に棄てられた」「アジアの孤児」「祖国は日本」などといった言説にしても、台湾が政治自由化した1990年以降になってから頻繁に発せられるようになったものである。こうした親日的感情は、戦後初期の国民政府の腐敗と無能ぶりを目の当たりにする中で芽生え、長期戒厳令下に醸成されていったものである。終戦直後の実体験に基づいたものではない。現に戦後の台湾に留用された日本人の回想録などを見ると、日本人としてかなり肩身の狭い思いをし、報復処置を受けた者も少なくないことがわかる。ただそれでも、満州や朝鮮からの引揚げ者とは比較にならないほどの寛大な処遇ではあった。
「外地」であったとして切り捨てられた旧植民地の 人たちは、日本人として帝国の戦争に参加しておきながら、戦後、軍人恩給などの補償を日本政府から一切受けることがなかった。台湾人の場合、まず台湾が中華民国に「返還」されたとして国民政府に接収され、そして1952年の日華平和条約によって戦争被害に対する賠償請求権が放棄させられた。しかしながら、そもそも台湾人は日本人と共に中国や連合国と戦ったわけであり、中華民国政府は中国大陸に住む住民の請求権を放棄することは出来ても、台湾人の請求権を放棄するのは理屈に合わない[2]。台湾は韓国と異なり、戦後独立を果たすことがなかったために、日本と国家間の交渉を行う資格をもたなかった。
さらに言えば、韓国の場合は1965年の国交正常化で一応不完全なりにも戦争責任が解決されたとしているが、台湾においてはそれすらも皆無である。日華平和条約締結後、両国は台湾籍日本兵らの補償については引き続き協議することを約束したものの、日本の軍人軍属として戦った台湾人のために日本と戦後補償の交渉を進める意思が、当時の中華民国政府にあったかは疑わしい。そして、1972年の断交と共に、両国政府の正式な外交交渉の場は失われた。
それでも、1974年にモロタイ島で元高砂義勇隊員・中村輝夫(アミ族名スニヨン)の生存が確認されたのをきっかけに、日本で台湾籍軍人軍属への補償運動が起こり、終戦から40年以上が過ぎた1988年、台湾人戦死者、重傷者に対する一律二百万円の支払いを取り決めた特別法が国会で可決された。また、軍事郵便貯金の支払いでは、台湾側が七千倍のレートでの返済を要求したのに対して、日本政府は百二十倍という決定を下して元日本兵の台湾人を大いに失望させた。
一方、台湾人元日本兵への慰霊は、1987年の戒厳令解除後、公に行われるようになった。台中の宝覚禅寺では、1990年に李登輝の揮毫による「霊安故郷」碑が敷地内の一角に建立されて以来、毎年11月下旬に海交会や南星会などの戦友会が日本からの参加者と共に慰霊祭を行なっている。台湾原住民タイアル族の部落がある台北県(現・新北市)のウライでも、宝覚禅寺より少し遅れて1992年に同様の記念碑が立てられ、戦死した高砂義勇隊の慰霊祭が催されるようになった。とはいうものの、戦争経験者の参加者数は年々下降の一途をたどっており、近年は日本会議と関連のある右翼系団体が中心となって台湾での慰霊が行なわれている。また、高雄市台籍日本兵文化協会という台湾地元の団体も、精力的に活動を続けている。当協会は2008年の元日本人軍属‧許昭榮の焼身自殺をきっかけに、故人を知る有志によって立ち上げられたもので、高雄市の行楽地‧旗津で戦争和平記念館を運営している。その他、日本人の団体がバシー海峡で戦没者慰霊祭を行なっているほか、戦時中日本軍の捕虜が強制労働された鉱山のある金瓜石では台湾在住の欧米人ら有志が毎年死者を偲び、追悼式を行なっている。
これらの団体は、相互の活動を理解しているものの、基本的に交わることがないのは、戦死者を「英霊」として顕彰する慰霊空間では、必然的に排他的でナショナリスティクな言説が支配的にならざるを得ないためである。戦死者が死んでなお国家の呪縛から解放されないのはアイロニーでしかない。
慰安婦の記憶と継承
記憶の政治に関して言えば、慰安婦問題は避けて通れないであろう。韓国のハルモニばかりがクローズアップされるが、ここ台湾でも、規模こそ大きくはないが、元慰安婦は実在する[3]。そして、韓国同様に、戦後忘れ去られていた彼女たちは、1990年代以降、ナショナリズム、人権、フェミニズムなどの政治意識の向上と共に脚光を浴びるようになってきた。台湾で慰安婦問題にもっとも積極的だったのは国民党の馬英九政権時代(2008-2016)で、その支援団体である婦女救援基金会も政治イデオロギー的に保守国民党寄りであった。2016年、台北に慰安婦の歴史を紹介する「阿嬤之家」がオープンし、当時の総統馬英九も開幕式に駆けつけた[4]。この馬英九は、任期中には慰安婦の阿嬤(台湾閩南語で「お婆ちゃん」を意味する)らを総統府に招待したり、退任後も毎年8月14日に台南の慰安婦像の前で行われる「世界慰安婦の日」の式典に元総統として出席するなど、今では「台湾慰安婦の顔」となっている。
しかし見逃してはならないのは、国民党(正式名称は中国国民党)と支援団体のナラティブの中では、台湾の慰安婦たちは「抗日戦争の被害者」として想像され、しばし南京や中国各地で日本軍の暴行を受けた女性被害者と同列で語られている点である。すなわち、戦争当時日本人(帝国の臣民)であった歴史事実が完全に無視されているのである。朴裕河が指摘しているように、台湾人も朝鮮人も戦時中は「帝国臣民」であり、差別を内包しながらも、「同じ日本人」「同志」として扱われていた[5]。敵国国民ではない。
もっとも、ここで歴史の改ざんを問題としたいのではない。歴史性を無視した結果、「同志」とみなされ、「聖戦」の下に、同調圧力によって身体をお国に捧げるよう「強制」させた帝国主義の暴力性について考える機会を奪うことの罪過である。
婦女救援基金会が手掛けた慰安婦の証言記録では、女性たちが軍に拉致されて慰安婦にさせられたように語られているが、ただ一人を除くと、その一つ一つの証言を見ても拉致、誘拐などの手段は確認できない。仲介人の甘い言葉に騙されたか、身売りさせられたかのどちらかである[6]。唯一拉致されたと主張する鄭陳桃(以下、陳桃)は、学校へ登校中に警察の車に乗るよう強制され、そのまま高雄港まで連れられてインド洋のアンダマン島に送り込まれたと証言している。だが、後にこれは作り話であった事が判明している(この点は後で改めて触れる)[7]。
筆者が見たこれより以前の文献では、看護婦や清掃婦として雇用された女性が戦争の末期になって、軍の命令で突如として配置転換、強制的に慰安婦にさせられた証言が残されている[8]。抵抗するも力ずくで暴行され、「お国のために」「天皇陛下のために」の押し文句で性的慰安を供給することを強要されたという。そして中には、そうすることがお国のためだと自分に言い聞かせながら協力した女性もいたとのことである。
その全貌こそ明らかではないが、皇軍の威厳をひけらかせて兵士の欲望を満たす行為が、戦時体制下、台湾の山地でなされたことが確認されている。1944年頃から日本軍はアメリカの台湾上陸に備え、満州から軍隊を台湾に転進させた。台湾の山地に配属された部隊はゲリラ訓練に明け暮れた。台湾の山地は原住民の居住地である。柳本通彦の報告では、戦時中、軍が地元警察の協力を得て、原住民女性を監禁して「慰安婦」にしていたそうである。中には南洋に志願兵として出征している男性の妻も含まれている[9]。日本統治下台湾の原住民社会は、平地との交流が制限され、ほぼ隔離された状態であったため、日本人警察が持つ権力は絶大であった。また、原住民社会では女性の貞操意識が高く、日本軍の性暴力の被害に遭った女性は無言を強いられた。それでも中には身ごもってしまい、隠しようがなく、のちに離縁、絶縁、村八分などの二次被害を被ったケースも少なくなかった。
従軍慰安婦が通常は戦地におけるものであることを考えると、戦時下とはいえ、外地(植民地)で起きたこのような日本軍による集団的性暴力事件は特殊であるといえる。また、台湾の平地ではこのような事件は報告されていないのであり、台湾統治の二重支配構造を利用した悪質な犯罪であると言わざるを得ない。これらの女性は海外戦地への移動がなかった点で「従軍慰安婦」とは性質を異にするが、のちにアジア女性基金会の償い金をもらっている[10]。そして同様の犯罪は、台湾東部の花蓮港でも行われていたことが報告されている[11]。ここでも、軍の性暴力被害者はやはり原住民女性であった。
帝国社会の底辺に位置する弱者を狙った犯罪は実に重いものである。戦争責任と植民地責任は分けて語られることが多いが、戦争動員という観点から考えると、この二つは不可分のものである。というのは、そもそも戦争と植民地統治は時間的に重なるものであり、また植民地にされたがゆえに動員させられたわけでもあり、同化政策、さらには皇民化政策によって「お国のために」という意識が教育を通して植え付けられていたからこそ戦争にも「協力した」のだといえるからである。
だがしかし、台湾人は、協力を強られておきながら、敗戦とともに見捨てられたのみならず、連合国の取り決めの下、戦時中に日本人として戦った中華民国政府に戦後は統治され、肩身の狭い思いをした。同化政策によって、日本人化した台湾人たちを新統治者は「奴隷化」されたとして侮辱し、権力から排除した。二二八事件では、新統治者の横暴ぶりに立ち上がり戦った多くの台湾人が「叛乱分子」として処罰された。その中には多くの元日本人軍人軍属が含まれていた。
折重なる戦後と記憶の政治
アジア太平洋戦争後、韓国と異なり、独立するのではなく、中華民国に統治された台湾では、黄智慧の言葉を借りると、「三つの戦後」が重なり合い、競合してきた[12]。しかし、長期戒厳令下、戦争の記憶が官に独占され、抗日戦争の記憶が強調される一方で、台湾人の日本兵や看護婦として従軍した記憶や銃後の住民の空襲や疎開の記憶が公に語られることはなかった。民主化以降、過去の記憶は自由化し、多元化されたものの、「中華民国」を称する現政府が公的資金を用いてアジア太平洋戦争の記憶を顕彰する動きは、未だ見られない。台湾では、終戦記念日は8月15日ではなく、日本が降伏文書に署名した10月25日とし、この日を「光復節」と呼んでいる。近年、台湾史の見直しの波に乗り、太平洋戦争への関心が高まっているとはいえ、政府が8月15日を「終戦」として記念しようとする動きは見られない。それでも、近年、台北大空襲が漫画やボードゲームになったりと、ポピュラー文化の中で太平洋戦争の記憶が再生産されつつある。加えて、各地に残る防空壕やトンネルなどが町興しの一貫で整備、観光スポット化されたりもしている。
しかし、かつて日本人だった台湾人の戦争の記憶が公的空間に進出していく中で、記憶の政治化は避けられない。台湾人慰安婦が日本軍の被害者として国民党の民国史観に組み込まれる一方で、台湾籍日本兵は未だ逆賊のような扱いである。逆に、台湾人元日本兵を支援する団体の側も、反国民党という立場上、慰安婦問題に関しては比較的ノータッチである。一般市民の関心も決して高いとは言えない。
元日本兵の中に慰安婦を「売春婦」と見なして同情しない傾向があるのは、皇国史観の影響もあろうが、待遇の違いにも起因する。元日本兵にしてみれば、同じく「日本人」として「日本軍に協力した」にも関わらず、慰安婦だけが被害者扱いされ、マスコミや政府の関心を集めるのは正直言って面白くないだろう。ある元従軍看護婦の方が筆者にこう言ったことがある。「慰安婦は500万の賠償金を貰えて、私たちにはなぜ何の補償もないのか?」と。日本政府の不公平な対応が台湾の戦争被害者を分断させている事実を、果たしてどれだけの日本人が認識しているであろうか。
変質する記憶
近年、民族や国家間の和解が取沙汰されているが、「和解」と「歴史」の関係はどうあるべきなのだろうか?歴史的真相を不問した上での和解は真の和解と言えるのだろうか?和解を模索する上で、厳密な歴史検証は不要なのだろうか?和解のためであるのならば、「被害者」である旧植民地被支配層側の人たちの国民物語を無批判に受け入れるべきなのだろうか?筆者はどれも違うように思う。
例えば、前述した元慰安婦の陳桃さんは、登校中に警察の車で拉致されたと言っている。そして別の場で、自身の通っていた学校は台南高等女学校(南女)であったという[13]。ところが当時、南女は主に市内の日本人女子学生の通うエリート校で、台湾人学生は各学年にわずか二、三人程度にすぎなかった。台湾人の中でも、大金持ちの才媛しかくぐれない狭き門であった。そうすると、貧しい家庭で育ったという陳桃さんがこの学校に通っていなかったのは火を見るより明らかである(そもそも当時の学生名簿に陳桃さんの名前はない)。
しかし、元慰安婦に同情する社会的雰囲気の中、南女の教師が学生を引率して陳桃さんを訪れている。陳桃さんは、学生たちから贈られた当時の制服を纏い、「時間を大切に、私の代わりに学業を成就してほしい」と勉励した[14]。その後、体調を崩し入院した陳桃さんを、今度は南女の校長が訪れ、「卒業証書」を贈呈している[15]。
これらは美談と言えば美談かもしれないが、実際に一生懸命勉強して合格し、勉学に励んだ当時の女性たちの正義はどうなるのか?そもそも陳桃さんはなぜ晩年になってこのような大それた嘘をつく羽目になったのか?
筆者はここに人間の弱さを見る。すなわち、当初は貧困ゆえに売られたという話だったのが、次第に脚光を浴び、注目され、韓国側の慰安婦ハルモニやその支援団体との交流の中で、ストーリーが変容していったのではなかろうか。それまでの人生において誰からも何らの注目もされず、平凡すぎるほど平凡な生活を送ってきた者にとって、大変な誘惑であったに違いない。日本軍を悪く言えば言うほど注目される、ということに気が付き、話に尾ひれ背ひれがついていった可能性もある。一方で、マスコミや支援団体の人間に誘導尋問的に求められたストーリーに協力してしまった可能性もある。フランスの社会学者モーリス・アルブヴァクス(Maurice Halbwachs)が指摘するように、記憶は化石ではなく、生き物である。当事者がおかれている状況や事後に得た知識や情報によって語り口も変われば、語る内容も変わっていくのである[16]。
似たような記憶の変容は元日本兵の間でも見られる。戦後の割と早い時期に元高砂兵を訪れたことのある学者は、最初は戦争に傷つき、あまり多くの事を語りたがらなかった帰還兵が、日本人が武勇伝を聞けば喜ぶことに気づいて次第に話の中身がエスカレートしていき、挙句の果てには、番刀を腰に軍服姿で現れては、アメリカ兵をバッタバッタと切り倒した話を自慢げにするようになったと回顧している[17]。日本人との交流が増す中で、台湾人日本兵たちの記憶はいつしか日本人の耳に心地も良い親日的ナラティブへと変容していったのだといえる。
結論:日本人「原罪」論と真の和解に向けて
台湾も韓国も、日本の植民地統治の記憶を利用して自国のナショナルアイデンティティーを確立・強化している点では同じである。しかしその違いは、韓国は「反日」の記憶でもってナショナルなるものを創造しているのに対して、台湾は親日的な記憶で「中国」とは独立したネーションを想像している点にある。「日本統治が台湾を近代化させ、戦後の高度経済発展につながった」とする親日的ナラティブは、間接的ながらも過去に反日的言説を駆使して正統性を主張してきた国民党および共産党に対する痛烈な当てつけであるともいえる。したがって、親日言説は過去の清算とは同等足りうるものではないし、冒頭で述べたように、帝国主義の傷を抱えた人たちは今なお存命である。さらに台湾には、植民地戦争の被害者のみならず、国共内戦で戦後台湾に逃げ込んだ外省人の多くは、日本の侵略により多大な被害を受けている。この両者が、戦後の二二八事件に見られるように、衝突、対立してきた遠因は日本にあるといえる。
本稿では、台湾における親日言説の陰に潜む植民地主義の癒えきらない傷痕について述べた。日台間の真の和解と友好を目指すうえで、植民地統治の「原罪」を負う日本人に求められている「償い」とは、植民地主義がもたらした「固有の困難」を被植民者側の人々と「分有する」ことに他ならない[18]。分有の形はひとつではないが、台湾の自由と民主が中国の覇権主義と軍事侵略の脅威にさらされている今日、そうした現実から目をそらすのではなく、台湾人が自分たちの将来を自分たちで決定する主体性を支持することは、終戦から75年を経て急速な風化の一途をたどっている過去の罪過への反省にまして、意味があるように思われる。
[1] 「日本国籍確認求め台湾人3人が国を提訴へ、大阪地裁」、産経WEST、2019年10月3日、https://www.sankei.com/west/news/191003/wst1910030019-n1.html(11月30日閲覧)。
[2] 無論、中国共産党に敗れ、中国大陸の主権を事実上喪失した状態にありながら、中国を代表して国事を決める権限があるかも疑わしい。そうした現状も条約の文言には反映されている。
[3] 2000年の時点で、七十名の元慰安婦の存在が確認されている。
[4] コロナ禍の影響で訪問客が激減して経営不振に陥ったため、2020年11月をもって閉館が決まったが、現在グラウンドファンディングで資金を募り、営業再開を模索している。
[5] 朴裕河『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』東京:朝日新聞出版社、2014年。朴はそうした記憶を元慰安婦の女性たちが隠蔽し、被害者としての朝鮮人という民族のナラティブに同調しないと問題になると思わせた戦後韓国社会の抑圧的な精神構造を批判した。
[6] 賴采兒ほか『沉默的傷痕—日軍慰安婦歷史影像書』台北:商周出版、2005年。
[7] 前掲書、167頁。
[8] 應大偉『台灣女人』台北:田野影像出版社、1996年。
[9] 柳本通彦『台湾先住民 山の女たちの「聖戦」』東京:現代書館、2000年。
[10] 下村満子、岡檀「座談会 必死で進めた台湾事業」デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金、https://www.awf.or.jp/3/persons-18.html。
[11] 代表的なものを挙げると、中村ふじゑ「台湾・原住民族イアン・アパイさんの場合」金富子、宋連玉編集『「慰安婦」戦時性暴力の実態[I]日本・台湾・朝鮮編』、東京:緑風出版、2000年、156-174頁;朱德蘭『臺灣慰安婦』台北:五南、2009年;柳本通彦前掲書。
[12]三つの戦後とは、太平洋戦争(1941-45)、日中戦争(1937-45)と国共内戦(1945-49)の戦後である。黄智慧「「戦後」台湾における慰霊と追悼の課題」国際宗教研究所編『現代宗教2006』東京:東京堂出版、2006年:66-67頁。
[13]「上學被抓去當慰安婦 小桃阿嬤:希望學妹替我完成學業」ETtoday新聞雲、2015年8月12日:https://www.ettoday.net/news/20150812/548589.htm(11月30日閲覧)。
[14] 「學者質疑小桃阿嬤學歷 台南女中堅持頒畢業證書」自由時報、2015年12月30日。 https://features.ltn.com.tw/spring/article/2020/breakingnews/1556703(11月30日閲覧)。
[15] 学校側は贈呈された日本時代の卒業証書は記念品であり、正式な証明書ではないとしている。「阿嬤的心願 南女將頒畢業證書」中央社、2015年12月29日:https://tw.news.yahoo.com/%E9%98%BF%E5%AC%A4%E7%9A%84%E5%BF%83%E9%A1%98-%E5%8D%97%E5%A5%B3%E5%B0%87%E9%A0%92%E7%95%A2%E6%A5%AD%E8%AD%89%E6%9B%B8-093335984.html(11月30日閲覧)。
[16] Maurice Halbwachs, edited and translated by Lewis A. Coser, On Collective Memory (Chicago and London: The University of Chicago Press, 1992).
[17] しまいには、アメリカ兵の首を27個も刈ったとの偽りの証言をするまでに至った。河崎眞澄『還ってきた台湾人日本兵』東京:文藝春秋、2003年、171頁。
[18] 丸山哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』東京:青土社、2000年、206頁。