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日本の「戦後処理問題」と和解
ちばてつや作(漫画家:6歳のとき旧満州からの引揚を経験) | 筆者 槌谷裕司(かりゆし姿) |
はじめに
筆者がこれまで、仕事で関係した恩給制度やシベリア抑留等の三問題、沖縄政策などの仕事は、いずれも先の大戦の戦後処理に関わるものであり、思えば「和解」が大きなテーマの一つであった。
先日、国立公文書館が所蔵する昭和最末期に制定された「平和祈念事業特別基金法」の法制局審査資料を眺めていたところ、筆者もかつて使用した「戦後処理問題に係る措置の概要」と題する説明資料や想定問答集などの一連の資料が出てきた。今となっては、当時の政府・与党関係者がこの問題についてどういう認識を共有していたのかを示す貴重な歴史公文書とも言える。
先の大戦は、言うまでもなく全国民に大きな災禍と悲惨な記憶をもたらした。主に内政に関する「戦後処理問題」と言えば、多くの人は、この戦争犠牲の救済(補償やねぎらい、名誉回復)の側面が強く意識されるであろう。たしかに、戦争被害者の利害関心を受け止めて、日本政府が行ってきた諸措置は、こうした要素が大きい。しかしながら、日本の「戦後処理」は、歴史的に見れば、同時に帝国の解体を意味し、例えば歴史認識や責任の有り様などにも深く関わる。また、敗戦、独立回復、復興、高度成長といったその後の大きな流れが、この問題に関する国民の理解や立法政策、さらには、内政の延長である外交・安全保障システムにも少なからぬ影響を及ぼしてきたものと考えられる。
以下では、日本政府がとった「戦後処理問題」に関する諸措置について、こうした歴史軸に沿って改めてながめてみることとしたい。
1.シベリア抑留者等三問題と平和祈念事業特別基金の創設
戦争が終わって35年、昭和の時代も終わりに近づく中、少なくとも700万余の日本人「関係者」が、国に対して自らの戦争犠牲に報い、何らかの措置を求める強い思いを示していた。その関係者とは、主に、
①恩給欠格者;国のために家族を残し、命がけで従軍したにもかかわらず、敗戦によって軍歴が突然終了し、わずかな違いで何らの処遇もされない者、
昭和63年当時・275万人
②シベリア抑留者;戦後になって旧ソ連・モンゴルなど酷寒の地に抑留され、人道に反する過酷な労働を賠償の肩代わりとして強制され、対価もほとんど支払われなかった者、同・57.5万人
③引揚者;戦後、住みなれた外地から強制的に移住させられ、財産や人間関係を含め生活の全ての基盤を失い、命からがらの引揚、生活再建に困難を極めた者、同・318.3万人
である。この他、戦災都市の空爆による死傷者が全国で約51万人に上ると言われている。
これらの中には、復員・帰還・引揚の時期、関係国との国交の回復の状況、家庭の事情や社会の偏見などの様々な事情から、それまで、声を上げることができなかった人々も多かったであろう。
およそ戦争は、全国民に何らかの損害を与えるものであり、その中で、この「戦後処理問題」とは、「戦争損害を国民の納得が得られる程度において公平化するため国がいかなる措置をとるか」という問題であるとされる。
後で触れるが、取り分け引揚者についてみれば、その時々で必要とされた応急援護や定着援護の他、過去二回にわたり個別給付のための立法措置が行われ、特に佐藤栄作政権のときの措置に関しては、「これをもってあらゆる戦後処理は一切終了」とすることが政府・与党間で了解された。
しかし、昭和56年(1981年)、鈴木善幸政権のとき、この方針を事実上見直し、戦後処理問題に関する「検討の場」を設けることが改めて政府・与党間で合意され、昭和57年6月から「戦後処理問題懇談会」(以下「処理懇」と言う。) を開催。以来、2年半35回にわたる検討が重ねられた。昭和59年12月の処理懇報告では、「もはや国において措置すべきものはない」としながらも、尊い戦争犠牲を銘記し、永遠の平和を祈念する事業を行う特別基金を創設することを提唱した。これは中曽根康弘政権のときであった。これを受けて、昭和61年12月、特別基金を設置するとともに、関係者の労苦を慰藉(いしゃ)する等の事業を行うことをもってこの問題を「全て終結」させることを再度「合意」したのだ。
実際に昭和天皇の御名御璽をいただいたこの法律が制定され、特別基金を設立したのは昭和63年。竹下登政権になってからのことだ。ちなみに、筆者は平成元年度から、基金事業の認可、予算要求を行う事務方(旧総理府)の立場で、この「戦後処理問題」にかかわった。
改めて「検討の場」設置に関する昭和56年の政府・与党合意の内容を仔細にみると、「自民党内の強い主張」を踏まえて公正な検討の場を設けることを政府が提案。併せて、佐藤政権時代の昭和42年の合意を尊重して、「新たな給付金等の措置は不適当」とまでクギを刺している。
過去に一旦、「あらゆる戦後処理に関する措置は全て終結」と合意されたにもかかわらず、政府・自民党が、慰藉事業を行う特別基金の創設とシベリア抑留者に対する慰労の措置(給付金の支給)を行うこととしたのは何故か。
その背景には、超党派での議員立法の動きがあり、実は政権与党の自民党内においても、シベリア抑留者の措置については、総務会までの了承を取り付けていたのだ。当時の三問題関係者とのやりとりを思い起こすと、終戦後の旧ソ連によるポツダム宣言違反の行為に由来するシベリア抑留者(恩給欠格者と受給者を含む)への措置を最優先とし、これに恩給欠格者、引揚者が続く序列が、それぞれの関係者のコミュニティ間で暗黙に了解されていたようだ。昭和61年12月の基金の設置・慰労金に関する合意・終結宣言は、そうした議員立法の動きを政府・与党が主導して受け止め、この問題について最終的な「和解」を目指した構図に見受けられる。ちなみに、シベリア抑留者問題については、別団体が提起した国家賠償を求める裁判が係争中であった。
昭和の時代も終わりが近づく中、関係者が自らの筆舌に尽くしがたい労苦の体験や社会への貢献が繁栄の中で忘れ去られることを危惧し、国に何らかの措置を求める心情を強く持ったことは想像に難くない。関係者の多くが社会において指導的な立場になる中で、これが無視できない政治勢力となったのである。筆者の体感としても、関係者の戦争犠牲の上に戦後の繁栄を築き上げられたとする認識があり、ちょうど「バブル経済」の絶頂期にあって、その果実をこうした記憶遺産を銘記し、「平和」を祈念する事業に分配する形で「和解」することを容認又は積極的に支持する空気が、社会にも、財政当局にもあったと思われる。
ここで、先にみたように、昭和56年合意では「新たな給付金等の措置は適当でない」としていた。にもかかわらず、「シベリア抑留者に対して個別に慰労金等を支給することは問題ではないか」と疑問に感じる向きもあろう。
処理懇報告も「もはやこれ以上国において措置すべきものはないが、関係者の心情には深く心を致し・・・特別の基金を創設する」としか言っていない。
国立公文書館に残された政府の内部文書を基にその答えを要約すると、
第一に、三問題関係者を慰藉し、平和を祈念するために創設するのが「特別基金」であり、
第二に、シベリア抑留者については、戦後酷寒の地で強制労働に従事したという特殊な事情を考慮して、基金の「特別事業」として慰労金の支給を行うこととしたもの。あくまでも、心の痛みを慰め、功労に感謝する意味を託した「基金の事業」という位置付けなのだ。この慰藉の事業主体は、言うまでもなく国の代行法人(認可法人)である基金であり、毎年度の予算は、基金が積み上がるまでの間、その果実相当の事業規模について国が収支差を補助するという建付けであった。
基金が設立された後、こんどは恩給欠格者がシベリア抑留者に準じた個別措置(記念品や内閣総理大臣名の慰労状の贈呈など)を求めて強く声を上げた。その事業費を捻出するため、政府・与党は、平成2(1990)年度予算編成過程で特別基金への出資枠(当初200億円)を400億円に倍増することとなった。
さらに、引揚者の個別慰藉をどうするのか、関係者の労苦を後世に伝える事業の実施方法などの基金の慰藉事業の内容を巡っては、その後も関係者と出資者(政府)間でやりとりが続くのであるが、紙数の関係から割愛したい。
2.「戦後処理問題」の成り立ちー軍人恩給の復活―
敗戦に伴う日本の「戦後処理問題」の成り立ちについて、さらに暦を遡ってみよう。
日本が講和・独立する前、取り分け終戦直後は、一般戦災による被害者はもとより、引揚者、復員軍人や軍属(傷病者を含む。)など日々の生活に困窮する者が続出し、援護の必要性が叫ばれた。
これに対し、日本政府は、昭和20(1945)年12月、「生活困窮者緊急生活援護二関スル件」を閣議に諮り指令し、緊急生活援護の措置として、衣料、寝具等の給与、食料品の補給などを行った。この困窮者生活援護の対象者であるが、
「1.失業者、2.戦災者、3.在外引揚者、4.在外者留守家族、5.傷痍軍人及其ノ家族並二本人の遺族」とあり、戦争犠牲であると否とに関わらず、生活困窮者に対する救済措置は、無差別平等原則に基づいて講じられた。これは国立公文書館のデジタルアーカイブでも確認できる。
さらに22年以降、未復員者等に対する措置について、俸給、扶養手当、帰郷旅費等の支給を行う立法措置が講じられるとともに、救済福祉政策として、昭和26年までの間に、福祉3法体制(身体障害者福祉、新生活保護、児童福祉)などのセーフティネットが社会保障制度の一環として順次整えられていくこととなる。
問題は、これら生活困窮者の中に、旧軍人軍属の恩給が停止された遺家族・未亡人も少なからず含まれていたことだ。終戦時の日本の人口は、約7,200万人であったが、占領下の昭和21年、勅令68号(いわゆるポツダム勅令)により、傷病恩給の一部を除いて軍人恩給が廃止され、その影響は、約570万人に及んだと言われている。これは、主に米軍の初期の占領政策、非軍事・民主化政策によるものであった。
ここで、戦前に創設された制度である恩給の性格をおさらいしておくと、官吏(文官)や軍人が国のために「忠実無定量」に奉仕した結果、失われた経済の獲得能力を補うものとして、国が使用者の立場から「国家補償の精神」に基づいて行うものとされてきた。このうち、文官恩給は、占領下においても非軍事化の網から逃れて廃止されず、公平化の観点からは、大きな火種が残ったのである。
しかし、占領末期には、高級軍人に手厚い軍人恩給の復活は忌避され、社会保障的な要素を含む戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和27年・法律第127号)の仕組みが支持された。俗に「恩給をレベルダウンしたのが援護法」と言われるが、朝鮮戦争が始まり、GHQの占領方針にも変化が見られる中で、旧軍人軍属関係者を対象とした措置がここから始められた。
講和・独立の見通しが立つと、占領期にも存続した文官恩給との制度内不均衡の問題が顕わとなり、遺族会を中心に軍人恩給の復活を望む声が高まった。
これを受けて、昭和27年に政府の恩給特例審議会が建議を行う。
その内容は、「国民感情、国家諸制度の現状に顧み、遺族、重傷病者、老齢者に重点化すべき」というものであった。これは、手厚い国家補償的性格を持つ恩給を復活させるに当たり、当時の世論や財政事情をも考慮して、特に救済が必要な対象者に絞り込むといった社会保障的考え方を取り入れたものである。
この建議を受けて、昭和28年8月、吉田茂政権の下で、軍人恩給が復活するのであるが、注目すべきは、国会論議を見ても当時の保守党、社会党が共に国との特別な身分関係を持つ軍人・軍属、その遺家族などの戦争犠牲者に対して、貧富の差なく行われる「国家補償」の復活を支持したのである。
軍人恩給が復活した当初、恩給費が「1兆円予算」と言われた当時の国の総予算の8%を占める規模にまでなったことから、マスコミ論調には「どんどん増える軍人恩給『恩給亡国』も遠からず」(朝日)といった批判的記事が見られるようになる。しかし、昭和30年になり、国民一人当たりGNPが戦前(昭和9~11年平均)の水準を超えると、経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。また、その後の国民所得倍増計画・高度成長路線により、恩給費の比率が相対的に低下するにつれて、この問題に関する世論の関心は次第に希薄化していった。
他方、軍人恩給の復活により、こんどは、敗戦に伴う恩給未裁定者などの制度内不均衡が問題化し、戦地戦務加算等の復活(昭和36年~)や抑留加算(昭和40年)などの措置が講じられることとなった。同時に、これが、他の戦争犠牲者との不均衡(軍歴通算問題、シベリア抑留者、引揚在外財産問題などを含む)を惹起したのである。恩給欠格者の問題もここからはじまったといって良い。
ここで、軍人恩給復活や戦没者とその遺家族などに関する諸措置について、国民の納得を得る上で重要な意味を持った出来事の一つとして、昭和27年5月、新宿御苑において天皇皇后両陛下が出席し、今日の形式で挙行された全国戦没者追悼式を忘れてはならない。各国政府間における戦後処理の枠組みが定まったサンフランシスコ講和体制の下で、先の大戦の戦没者を国民が一体感を持ってお祀りすることは、戦後の日本がネーション・「共同体」として想像され、再生したことの証となったのではなかろうか。
さらに言えば、米国の安全保障の傘の下で軽武装による戦後復興と経済成長に重点を置いた吉田・岸政権の時代の空気が、こうした「戦後処理」のあり方に影響を及ぼした可能性がある。
3.「戦後」に終止符を打つ
戦後の歴代政権の中で、未処理のまま懸案となっていた数々の問題解決に最も精力的に取り組んだのが、佐藤栄作政権である。先に触れたように、引揚者への特別給付金の支給に関する与党・政府了解は、昭和42(1967)年に行われた。実は、その直接の引き金となったのは、農地解放により土地を失った旧地主に対する補償問題であった。当時の大蔵省が遺した引揚在外財産問題の処理方針に関する内部検討文書(「第3次在外財産問題審議会」関係)を国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧すると、両者は、波及不可避の一体的な政治問題として認識されていたことが良く分かる。
池田勇人政権のとき、昭和38年の第43回国会は、冒頭から、農地補償問題に関する1億8千万円の調査費をめぐり、論争となった。野党側は、旧地主を対象とした農地の再補償に強硬に反対するとともに、戦後処理に関連した諸措置の公平化を求める立場から厳しく追及した。このとき、政府・与党内においても、実は調査費は補償を前提とするものではないとする政府・旧大蔵省の見解と、補償の予備調査とする自民党側とが対立していたのである。
野党の追及に、池田は、当初、「補償」ではなく「報償について何らかの措置をとるための実態調査」とかわしていたが、3月2日に至り「農地改革についての資料の収集または保存等、被買収者に対していかなる措置をとるかの研究・調査」と答弁し、この問題についてやや消極的、後退した印象を与え、自民党内からの反発も招いた。
総裁選への出馬を控えて閣外にいた佐藤は、この日の日記に「農地補償問題も対策のない一つと思はれるが、なんとかして終戦後の不公平新制度等後始末をつける事を本格的にとり上げる時期かと思はれる。」と記している。池田と佐藤では、こうした問題に取り組む姿勢に大きな違いがあることが、その後の国会審議の場においても如実にあらわれることになる。
昭和40年に入り、国会で「農地被買収者等に対する給付金の支給に関する法律案」の趣旨説明が始まると、野党側は、政府自民党が旧地主団体の圧力に屈し、党利党略により、実質的に農地の再補償を行うものであるとして、法案の不当性を追及。「旧在外財産補償問題や学徒動員、強制疎開、さらには空爆犠牲者などの補償要求にもつながりかねない。その覚悟はありや否や」と質した。
これに対し、前年に病気の池田から政権を禅譲された佐藤は、農村の民主化、その後の経済発展の基礎をなした農地改革において重要な役割を果たした農地被買収者の貢献を多として、これを報償することは、「国民の責務」であるとまで言い切り、「総調和」のもとで「報償」を行うことに理解を求めたのである。他の「戦後の処置」(引揚在外財産問題などの戦争に基づく諸問題)との関係について、佐藤は、淡々と「必要に応じ解決を図っている」と答弁した。
農地被買収者及びその遺族は対象者107万人、9万2千法人に上り、これ対して、買収された面積に応じ最高百万円までを交付公債で給付(10年償還、無利子、国債発行金額1,456憶円)する法案であったが、佐藤はこれを賛成多数で通過させた。
このとき、引揚者は、社会保障措置としての「生活困窮対策」ではなく、補償責任に近いものを求めており、その総額は、一説には1兆2千億円(40年度当初予算の約3分の1に相当)とも言われていた。ちなみに、当時の大蔵省の見解は、「平和条約(第14条)締結の際、日本政府は旧連合国による日本人の私有財産処分を認めたが、これは旧連合国の処分に対し外交保護権を放棄したに過ぎず、憲法29条3項による公共のために用いたことにならないから、国に損失補償義務はない」とし、実態調査の要望についても、「引揚者の在外財産の大半は、中共地区等に所在しているため、買収農地と異なり、調査することは不可能」というものであった。(38年11月29日主計局法規課作成・大蔵大臣総理説明資料)
これに対し佐藤は、在外財産問題審議会(昭和39年12月~41年6月)への諮問・答申を経て、国に法的補償義務はないとするそれまでの立場は尊重しつつも、引揚者がその全生活基盤を失った「内地の戦災者と異なる事情」を考慮し、特別の政策的措置として、終戦時の年齢に応じて2万円から16万円の特別交付金(対象者312万5千人、10年償還、無利子、国債発行金額1,636憶円)を支給することとした。そして、これをもって、「あらゆる戦後処理に関する諸措置は一切終結」(昭和42年6月27日政府・与党了解)としたのである。
この引揚者への交付金の支給が決まると、いよいよ沖縄問題である。42年7月、佐藤は、総理府総務長官の下で行われていた「沖縄問題懇談会」を総理直轄の懇談会に発展的に解消するとともに、森清総務長官が提唱していた教育権分離返還構想を封印し、「施政権一括返還」の方針に本格的に舵を切っていく。
実は、佐藤は、昭和39年7月1日、自民党総裁選に際して、記者からの質問に答える形で、既に「領土問題が解決しなければ戦後は終わったとか、日米のパートナーシップの確立とかは言えない」との考えを示していた。次いで、昭和40年には、戦後の総理として初めて沖縄を訪問し、全国民の記憶に残る形で「沖縄返還」を求める宣言を行い、45年に予定されている日米安保条約の自動改定をにらみ、それまで、ある意味でタブーとなっていた返還論議を俎上に載せていたのである。
新たに発足した「沖縄問題等懇談会」の初会合で佐藤は、「(沖縄返還の)国民の願望とわが国の安全保障上の冷厳な要請をいかに調和させるか」(傍点筆者)が問題の核心であると表明した。そして、この問題に安全保障関係を含む識者の英知を結集するとともに、懇談会を世論構築の場として積極的に活用する構えを見せたのである。
4.佐藤政権と「戦後」日本の国家像
佐藤政権は、昭和39(1964)年11月から47年7月までの7年8ヶ月、2,797日の長期に及んだが、どのような国家像をもって「戦後」と向き合ったのか。
戦後初期の日本の統治についてであるが、先にながめたように、米国の占領政策は、終戦処理としての懲罰的要素や非軍事、民主化に軸足が置かれた。その後、東西冷戦構造を背景として、日本の経済復興や再軍備、西側への統合を目指す方向へとシフトしていった。
その後、池田から政権を引き継いだ佐藤は、高度経済成長の果実を享受する一方で、こうした大きな社会変動がもたらした物価・福祉・公害などの新たな「社会的ひずみ」や「戦後」に積み残してきた内政上の諸問題、さらには沖縄返還や日韓国交正常化など日本の外交・安全保障に関わる諸課題に直面した。これらにどのような答えを出すのか、日本政治が一つの転換期を迎えた時期でもあった。
佐藤は、先にみた自らの日記での独白にもみられるように、日本の伝統を重んじる立場から、占領改革の行き過ぎには批判的であった。さらに、国民の安全を守れなかった戦前の反省に立ち、「戦後」の国際社会と「調和」した新たな日本の国家像にこだわり続けたと言える。
ところで、佐藤政権は、国民との直接対話を重視し、東京オリンピックを契機として急速に普及したテレビや国権の最高機関である国会の場を積極的に活用して国民説得を熱心に行った。敗戦から四半世紀を経て、米国との交渉により沖縄の復帰が決まった45年の施政方針演説をみてみよう。
佐藤は、「日本がアジアの一員として、軍事大国でもなく、福祉至上主義でもなく、①内においては、経済的繁栄の中で発生する人間的社会的問題の解決を図り、②外に対する責務との調和、世界の民生安定に貢献する」という新しい国家像を構想し、全国民に向けて発信した。
さらに、この年の10月には、佐藤が、ニューヨークで米国経済人を前に極めて印象的なスピーチを行っている。それは、「相対的に低い軍事力しか持たない経済大国として、人類に貢献することを目ざす、史上類例を見ない独自の道をたどる決意」の表明であった。
敗戦からの復興を図り「安全なくして繁栄なし」とした吉田路線、しかし、これは、岸内閣の日米安保条約改定のときに大規模な反政府・反米運動を招く。そのアンチテーゼとして、「成長なくして安全なし」、所得倍増・高度経済成長を唱えた池田路線。
この吉田路線、池田路線との「調和」を図り、「安全即繁栄、繁栄即安全」とする路線を展開したのが佐藤政権であったとされる。
これは、佐藤政権のブレーンである「Sオペレーション」を中核とした知識人グループのメンバーの一人であった高坂正堯の「新現実主義」の思想に近い。
高坂は昭和40年代において「吉田路線」を再評価し、「海洋国家」を国家目標に掲げるとともに、平和を日本外交の価値とし、そのための第一歩が勢力均衡の維持であるとした。また、「力」(ハードパワー)や「利益」(経済力)を軽視する革新陣営の理想主義とともに、「価値」(ソフトパワー)の役割を過小評価する保守陣営の現実主義にも批判を加え、その両立を可能にするのが「新現実主義」である。この考え方に基づけば、通商を生業とする日本の方向性として、必要最小限の防衛力を保ちながら、経済力、技術力などの他国の役に立つという能力を国際社会の中で生かしていこうとするものである。
いずれにせよ、佐藤は、平和憲法の下で、安全と安定を求める国民世論の本質を洞察し、外に対しては、経済力・ソフトパワーによって平和共存を実現し、東アジアの復興と新たな秩序形成(安全保障システム)を通じて日本の責務を果たそうとした。このため、内においては「戦後」に積み残した懸案やひずみを放置することはできなかったとの見立ても可能であろう。
ちなみに、佐藤政権になって以降、本格的な公債政策と大幅減税を導入して、社会開発、社会資本の拡充を中心に、対前年度比で18%増の積極予算を組み、戦後一貫して堅持してきた超均衡財政主義からの大胆な転換を図った。そして、東京オリンピック後の「40年不況」を乗り越え、高度成長を継続させている。これも、国家の自立を志向した佐藤の「戦後」経済社会システム改革の取組と評価できよう。
5.むすび
上に眺めてきたように、佐藤栄作政権は、内閣の命運をかけて沖縄の施政権全面返還を提起し、長期にわたる国民の支持を得て、これを成就させた。当時、中国が台頭し、多極化に向かう激動の国際社会の中で、覇権がゆらぐ米国との関係を強化し、東アジアの安全保障システムの構築を進めることが急務であり、このため、新たな国家像について国民に理解を求めながら、「戦後」日本の経済社会システムの改革を行うことが必要不可欠であった。その際、農地補償問題と引揚在外財産問題を一括りに処理し、関係者と和解し、様々な意味でネーションのインセンティブを高めることは、佐藤にとって内政上避けて通れない懸案であったのだという仮説は成り立たないだろうか。
佐藤は、こうした「戦後」システム改革を行いながら、変容する冷戦の時代にふさわしい「非核」、「専守防衛」、「経済大国」を新たな国是として据えながら、「平和共存」という価値を追求した。その背後にあったのは、政権発足後初の所信表明演説で自らが明らかにしたように、「寛容と調和」というキーワード、異質なものを排除せず多様性を取り込むという政治理念・哲学であったかも知れない。水面下で、日中国交正常化のための密使を派遣していたことと考え合わせると、ここに、東アジアの国々をも視野に入れた「共同体」想像の志向性をも看て取れないだろうか。
本稿の冒頭で触れたように、「戦後処理問題」に関する諸措置を「戦争犠牲の救済」といった立法政策の側面から捉えれば、国民全体と特定の関係者間の「衡平」や分配の在り方が重要な要素となる。しかしながら、「外交は内政の延長」であると言われ、逆もまた真である。
「戦後処理問題」を「戦争犠牲者の救済」の側面だけでなく、
・戦争に関する公的記憶、歴史認識、責任論
・かつての日本帝国関係地域やその住民との関係
・日本を取り巻く国家間・地域との国際政治上の関係、新たな国際秩序の形成や安全保障システムの構築
などの文脈で理解し、その歴史的・戦略的意義や積み残された問題を検証していくことは、今日において特に重要である。
日本の「戦後処理問題」は、帝国の解体の歴史にも深く関わる問題でもある。和解学のアプローチは、それぞれのネーションごとに複数の正義がある中で、記憶や感情などの共通認識を見いだすプロセスを経て、新しい道徳、規範へと昇華するプロセスを重視する学問である。和解そのものが目的ではなく、むしろ未来からの呼びかけに応える手段であると言っても良い。そうした対話の中で、どのように歩み寄り、どういう価値に昇華していくのかという分析視点を備えた和解学のアプローチを駆使し、「戦後処理問題」を多面的に理解していくことは今後の課題となろう。
戦後75年を経た今日、冷戦後の国際社会における大きな価値の一つとなったが、米国が主導した「グローバリゼーション」である。これが世界経済の基盤をつくり、新興国などの成長を支えることを通じて、世界の政治経済の安定や安全保障にも貢献してきた側面がある。しかしながら、リーマンショックを経て、経済格差や環境問題、医療福祉の格差などの問題が顕在化し、米中対立や今回のコロナ禍を通じて自由資本主義のあり方も問い直される様相を呈している。こうした中で、わが国は今日、どのような価値を掲げて国際社会における役割を果たしていくのかが問われている。
過去に歩んできた歴史を正確に知る「戦後処理問題」研究は、今日の諸課題について最適な解を得るためのヒントになる。
参考『平和祈念事業特別基金等に関する法律・御署名原本』(昭和63年・法律第66号) 出所;国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和天皇の最晩年の御名御璽が付されている。 |
【資料・公文書等リンク集】
① 国立公文書館
③ 平和祈念事業特別基金 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/t_kikin/index.html
④ 佐藤栄作政権(第2次)
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/062.html
⑤ 鈴木善幸政権
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/070.html
⑥ 「戦後処理問題懇談会」
https://www.soumu.go.jp/main_content/000213929.pdf
⑦ 中曽根康弘政権(第2次)
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/072.html
⑧ 戦後処理問題に関する政府・党合意(61年12月)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000213930.pdf
⑨ 「平和祈念事業特別基金等に関する法律・御署名原本」(デジタル文書)
⑩ 竹下登政権
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/074.html
⑫ 終戦時の日本の人口
https://www.stat.go.jp/info/today/021.html
⑳ 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/
㉑ s38.1.26衆・本会議(農地報償問題・池田総理答弁)
㉔ s40.3.23 衆・本会議(農地報償関係・佐藤総理答弁)
㉖ 第3次在外財産問題審議会文書(s38.11大蔵大臣総理説明資料)・(再掲)
㉘ s45施政方針演説
https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pm/19700214.SWJ.html
㉙ s45米国経済人向けスピーチ
https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPUS/19701019.S1J.html
㉚ s39政権発足初の所信表明演説
https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pm/19641121.SWJ.html
【参考文献】
① 佐藤栄作・『佐藤栄作日記』第二巻 1998 朝日新聞社
② 村井良太・『佐藤栄作』2019 中央公論社