和解学の創成

  • 1872年東京 日本橋

  • 1933年東京 日本橋

  • 1946年東京 日本橋

  • 2017年東京 日本橋

  • 1872年8月〜10月北京 前門

  • 現在北京 前門

  • 1949年前後北京 前門

  • 1930年代北京 前門

  • 1895年台北 衡陽路

  • 1930年代台北 衡陽路

  • 1960年代台北 衡陽路

  • 現在台北 衡陽路

  • 1904年ソウル 南大門

  • 2006年ソウル 南大門

  • 1950年ソウル 南大門

  • 1940年代初ソウル 南大門

夢の第一歩

パンソリ唱者

安聖民(アン・ソンミン)

 

32歳の時に韓国に留学した。大学を卒業した後、先輩が紹介してくれた民族講師の職に就き、小学校勤めも10年近くになろうとしていたころだった。いわゆる語学留学ではなく、伝統芸能であるパンソリを習いにだ。“先生”と呼ばれる職を辞し、「歌を習いに韓国に行く」と言い出した私を、家族は「姉ちゃんはおかしくなった」と言いつつも、「自分の人生は自分で歩め」と快く送り出してくれた。

大阪で生まれ育ち、小中高と日本の公立学校に通った私は、自分が朝鮮人だということを置き去りにしたまま大学生になったが、幸運にも同胞の先輩と出会えたことで自身の存在理由を改めて考える機会、置き去りにしたモノが何なのかをちゃんと確かめる機会を得た。「あなたは朝鮮人だ」と言われても、私はそれを説明できるモノを何も持っていないと思っていた。まるであんこの入っていない最中のように中身はカラッぽ。でも、あんこはちゃんと入っていたのだ…それが歌だ。

大学2回生の時、先輩と一緒に韓国語を習い始めた。「家まで来るならタダで教える」と言ってくださったKさんは、当時の大阪における民族文化運動の中心人物の一人だった。彼女に誘われて私はやがて公演活動に参加するようになり、民族楽器を叩き、お芝居をし、民謡を歌う…といったことにどんどんハマっていった。ある時、民謡のカセットテープを聞いていて、その中の一曲にハッっとした。母がよく歌うあの歌!「これ、おとちゃんが好きやった」と、洗い物をしながら母が歌うその民謡を、私は幼いころ意味もわからず真似してたっけ…。そう、私の中にもちゃんと民族は存在していたのだ。“どこで生きて暮らしても、朝鮮人として受け継ぐべき財産を自分も受け継いで生きていきたい”…そう思える自分を作ることができたのは歌があったからだ。

パンソリを習いに行こうと決めたのには何か大きな決意があったからではない。パンソリで身を立てるだとか、誰もできないパンソリを自分こそは習得してやるだとか、そんな気負いや使命感は一切なかった。ただただ歌が習いたかった。あんなに好きだった民謡を歌っていてもちっとも楽しいと思えない自分に限界を感じていたからだ。

韓国の重要無形文化財第5号パンソリ「水宮歌」の技能保有者である我が師匠・南海星(ナムヘソン)先生に弟子入りしたのは2001年の夏。それ以来、サンコンブ(夏のレッスン合宿)には欠かさず参加をしている。4年間の留学を終え、2002年には大阪に帰ってきたが、一人前になるには10年かかると言われるパンソリ…楽しいと思って歌えるにはまだまだ修行が足りない。練習しても練習しても、全然上達しているように思えない。プロになるには幼い頃から鍛錬を重ねて声を作りあげる必要のあるパンソリを、30を超えた、それも在日3世がモノにしようと思う方がどうかしている…。夏休み、冬休みと休みごとに師匠の下に通いながらも、だんだんと“私は何のためにパンソリを習っているんだろう”と思い始めた。“プロになる?プロになってどうする?韓国で公演活動?ゆくゆくは師匠のように無形文化財を目指す?いやいや、それは違う。じゃあ、習い続けてどうするの?”…その答えは2006年の「水宮歌」完唱公演をきっかけに見つけた。物語を全部語ると2時間半かかる古典演目「水宮歌」を1時間45分ほどに短縮して語るこの公演を準備していく過程で、南海星先生に「日本で暮らす在日のあなたにしかできないソリをしなさい」と言われたのだ。思い悩んでいたことの答えが見えた気がした。

初めて耳にした時、“どうやったら人間がこんな声を出せるのか”…と衝撃を受けたパンソリ。しかし、声もさることながら、習えば習うほど、深く知れば知るほど、パンソリの持つ物語性にどんどん惹かれていった。パンソリはただの歌ではない。物語…そう、人々の日常を描く語り物だ。観客たちはパンソリに出てくる登場人物に自分を重ね、泣いて笑って、心に澱んだドロを洗い流して、明日からまた頑張れる“生きる力”を得たのだ。パンソリは人と人がともに生きていく姿、人生そのものを映し出している。だからきっと250年もの間愛され続けているんだと思う。「あなたにしかできないソリを…」そう。私が私の何たるかを確かめることができたのは歌があったから。この歌で、このパンソリで、私は私にしかできない私たち在日の物語を語ろう…2006年公演のパンフレットに“在日の話をパンソリにするのが夢だ”と書いた。そして、それが実現したのが12年後の今年4月。

私の祖父母は父方母方ともに済州島出身だ。1930年代に大阪に渡って来た後、結局一度も故郷に帰ることなく、大阪の病院で亡くなった。韓国語を習い始めたころ、父方の祖母の家に遊びに行き、リンゴの皮をむいてくれた祖母に「コマッスンミダ」とお礼を言い、「どこでその言葉覚えた?」と驚かれたことがある。唯一、私が祖母に話せた、たった一言の韓国語。亡くなる前にはすっかり日本語を忘れ、済州島の方言しか話さず、孫のことも忘れてしまったハルモニ。…祖母が何故、どうやって大阪にやって来たのかといった話をとうとう直接聞くことはできず、もちろん済州島でどのように暮らしていたのかも聞くことができなかった。心残りでならない。今回の創作パンソリ「四月の物語」を作るにあたり、4.3事件に関する資料や数多くの体験者の証言に触れるたびに、その思いを強くした。

昨年の夏あたりから、70周年を迎える今年こそは必ず済州島での慰霊祭に参加しようと思っていた。そして、そのことを相棒の鼓手・趙(チョ)倫子(リュンヂャ)と話すうちに、私たちは“できるなら、ほんの少しでいいから、済州島で自分たちの気持ちを歌いたい”と考えるようになった。大阪の在日本済州四・三事件遺族会の主催で慰霊の旅が計画されると知り、ツアーに参加することにしたのだが、友人を通して主催者に“歌いたいと思っている”と伝えたことがきっかけで、あれよあれよという間に慰霊祭関連行事の一つ、済州四・三研究所主催の体験者証言集会“ポンプリマダン”のオープニング公演出演が決まった。“できれば歌わせてもらいたい”という話が“4.3創作パンソリをする”ということになり、果たして自分たちの力で創作ができるのかという不安と済州島でパンソリができるという喜び、もし失敗したらという恐怖ときっとうまくいくという根拠のない自信が胸に渦巻く中、私たちは秋の終わりに本格的な準備に取りかかった。まず脚本を趙倫子が書き、それを二人で歌詞に起こし、それに私がパンソリの旋律をつける(作唱する)ことにしたのだが、何もかも初めての作業…手探りの私たちは何度も壁にぶつかり、何度も倒れこんだ。が、そのたびにお互いを支え起こし、まさに一歩一歩前に進んだ。在日3世の私たちが韓国語で歌詞を作ることの難しさをひしひしと感じ、韓国語のリズムと発音に何とも絶妙に合うパンソリの旋律の偉大さに改めて驚き、自分たちが歌い叩いてきたモノの深みを思い知った気がした。そして、そういった学びや気づき以上に、今回私たちが得た最も大切なことは“表現したいことをしっかり持ち、どう表現するのかをしっかり持つ”ということだった。

3万人もの島民が犠牲となった済州島4.3事件。祖父母が生まれ育ったこの島で起きた、胸の潰れるようなあまりにも凄惨な事件を私はどう受け止めればいいのか…。「単純に善と悪では語れない」…脚本を書きながら、趙倫子が私にこう言った。もちろん、朝鮮半島の分断を決定づける南半分だけでの単独選挙を目論む米軍政、本土から引き入れられた警察、西北青年団をはじめとした右翼たちが一体となった討伐隊の暴行、殺戮の犠牲者が最も多いとはいえ、武装蜂起し漢拏山に入った武装隊の無差別攻撃で犠牲となった島民も数多くいた。討伐隊と武装隊の報復攻撃の悪循環で犠牲になった何の罪もない人々…。そして生き延びた人々の中にも、トラウマから精神を病んだり、自分だけが生き残ったという罪の意識で自ら命を絶ったり、“アカ”のレッテルを恐れ、沈黙せざるを得なかったりした人々が本当に数えきれなく存在する。私たちが簡単に善と悪を決め、分かった顔で「悲惨な事件が二度と起きないように頑張ります」などと言えるわけもない。だから私たちは、“すべての犠牲者を記憶すること”、“4.3を伝え続けること”を自分たちの生き方の一つとしていくことを表現しようと思ったのだ。希望を持って。

“在日の話をパンソリにするのが夢だ”と言い放ち、12年後にできた第1作目「四月の物語」…12年もかかってしまったが、12年が必要だったのかもしれないと思ったりもする。今後も自分たち自身の物語を一つ一つ丁寧に作り上げていきたい。