和解学の創成

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和解としての「済州4・3」70周年=立場を認め合って

特定非営利活動法人聖公会生野センター総主事・在日本済州4・3犠牲者遺族会会長

呉光現

 

「済州4・3」70年を迎えて

「済州4・3」から70年。未だにその名称が確定していない出来事だ。「事件」「蜂起」「抗争」「暴動」…。名前がないから仕方なく私たちは「済州4・3事件」と呼んでいる。

「済州4・3」は韓国の民主主義の発展と共に真相究明、名誉回復の措置がとられてきた。もちろん済州での闘いがあればこそであった。

2000年、金大中政権の時に特別法が制定され盧武鉉大統領の直接謝罪を受けたがその後の保守政権の9年間は「耐える」時期だった。韓国のロウソク革命で生まれた文在寅大統領は12年ぶりに4月3日に済州を訪れた。島民の前に立ち12年ぶりに謝罪をした。そして「済州4・3は大韓民国の歴史です」というスローガンのもと、彼の口からは在日作家金石範先生の名前も呼ばれた。そうだ、私たちの先達は「済州4・3」が暗黒の時代にあっても「済州4・3」の歴史を死に絶えることなく伝えてきたのだ。その金石範先生の名前が「済州4・3」で大統領の口から発せられた時、涙が押さえられなかった。

70周年を迎えて日本、特に大阪では1年前から準備を始めた。3月に国際シンポジウム「国際社会と済州4・3 日本からの視点」を開催。4月3日には100人規模で済州で慰霊祭に参加した。そして4月22日は大阪でこれまでにない規模で「在日本済州4・3事件犠牲者慰霊祭」を持つに至った。

国際シンポジウム「国際社会と済州4・3 日本からの視点」(2018.3.10~11.)

「在日本済州4・3事件犠牲者慰霊祭」(2018.4.22.)

 

 

 

 

 

 

 

 

「済州4・3」70年慰霊の旅

 

済州島を訪れた日本遺族・同胞・市民平和紀行団(2018.4.1~4.)

2017年8月15日、大統領の光復節のメッセージは在日「朝鮮籍」の同胞の韓国入国を認めた。それに接した時「4月3日の済州島での慰霊祭には朝鮮籍の同胞も一緒に行く!」と決意した。結局は50名の募集に対して100名の規模での旅になった。そこには8名の朝鮮籍同胞もいた。86歳から21歳まで。1世から4世までである。私は在日の「韓国籍」「朝鮮籍」の意味のない分断を感じながら4日間を過ごした。大統領は知らなかったが朝鮮籍の同胞が彼と握手をして「私は文在寅大統領のファンになったわ」と喜ぶ80歳になろうとする女性の言葉が忘れられない。彼女は人生一貫として朝鮮総連・朝鮮籍を大切にしてきた人だ。初めて踏んだ父母の地済州島。どうしてもコヒャン(故郷)に行きたい、当然の思いであり、権利だ。ある人は旅の前に私にこう言った。「今回の済州島の旅は人生初めてで多分最後です。」彼女は82歳である。そこまでの決意を私はいかに受け止めるのか?記号でしかなく、しかし記号だけではない「韓国籍」「朝鮮籍」の存在が大きな心の壁にもなっていた。その壁を乗り越えるのは韓国の民主主義の発展だと思うのは私だけだろうか?

いみじくも南北首脳会談が4月27日に開催されたが過去の2回も韓国ではリベラル政権だった。朝鮮籍であろうとも自分のルーツにあるところに行くのに韓国の政情がいつもついて回るというバカなことは終わりにしなければならない。

今回の「済州4・3」の旅には事件を体験なさった方4名も参加した。若い方で78歳である。14,000名を越える位牌の前で食い入るように親族の名前を探していたハルモニ。自分のルーツのある村の位牌に同じ姓の犠牲者が延々とあるのを見て「親戚がいるのだろう」と思った在日4世の若者。3,000基を越える行方不明者の墓地の前にたたずんだ時「この墓には遺体が一つもないのだ」と思った。実は私の叔父も二人ここにいるのだ。

文在寅大統領の済州4・3追念式での演説(2018.4.3)

済州4・3平和公園内にある行方不明犠牲者の墓域

 

 

 

 

 

 

 

 

「済州4・3」運動に関わって

1997年、40歳の時。事件から50周年を迎える1年前になって、私は「済州4・3」運動に関わり出した。1世の両親を持つ猪飼野生まれ育ちの私にとって、심방(標準語では무당=巫堂。民俗信仰とも精神文化ともいえる韓国の宗教)は日常の世界だった。

初めて大阪で慰霊祭を開くことになった時、当事者は誰であるのか?と論議をし、思いを馳せた。当然在日1世しかあり得ないと思った。1998年3月21日、会場の生野区民センターには500名を越える人が集まった。そこには私のオモニ(母)をふくめて多くの済州1世の姿があった。慰霊祭は笑いと涙、そしてハンプリ(恨を解き放つこと)の群舞となって終わった。

大阪でも始まった「済州4・3」運動は様々な経過をもって、毎年4月3日に済州島で行われる慰霊祭に遺族たちが参加できるまでになった(「済州4・3の旅」)。4月下旬には大阪でも慰霊祭を開くことになっていった。

2000年には大阪で在日遺族会が結成された。50周年を契機とした運動は、韓国の動向とも連動しながら進められていく。

当初6人の2世、3世で始めたこの運動は、年を経るにつれて多くの人が参加するようになった。2003年、盧武鉉大統領が済州島民の前で公式謝罪したことを受け、2004年には生野、東成の総聯支部委員長、民団の支団長が共同代表を務めて、1,000人を越える規模で大阪の慰霊祭を開催した。これは「済州4・3」が、組織を越えたアクションになるということを示したエポックだった。

朝鮮半島を取り巻く情勢の悪化から、長らく総聯と民団の共同開催ができていなかった大阪での慰霊祭だが、70周年を迎えた今年は再び総聯と民団、そして関西済州特別自治道民協会が共に後援として名を連ねて開催することができた。こうして「一つ」になって実施できることに対し隔世の感があると共に、「済州4・3」で亡くなった方々に応えることができると思うと感謝に堪えない。

 

もう一つの現場大阪

「済州4・3」で日本に逃れてきた人は5,000人以上と言われている。大阪生野にはその多くの人が住んでいる。在日遺族会もその中から生まれた。しかし済州以上に「済州4・3」の暗黒を抱いてきた在日済州人は語ることすらできなかった。自分が話すとクニの親戚に迷惑がかかるのではと強く思っている人、大阪の慰霊祭の会場まで来るや身体が震えて中に入れなかったハルモニ(おばあさん)。拷問の体験を語り出す止まることなく当時の記憶をはき出すように叫び出すハラボジ(おじいさん)。語ってくれても決して録音、録画をさせてくれない方…、その先輩たちが経てきた歴史はまさに済州であり日本大阪である。

70年と言う歳月は短くはない。いつかは私たちも大阪で慰霊祭ができなくなる時が来る。その時に記憶だけが残されたらいつかは風化するのではと最近思うようになった。ある友人の言葉が私たちに一つの決断をさせた。大阪で「済州4・3」の慰霊碑を建立するのだ。「済州4・3」は大阪の在日朝鮮人の歴史の一つだ。植民地時代に日本に渡ってきたアボジ(父)も弟が犠牲になったのに一言も語らずにこの世を去った。今こそ私たちは「大阪は済州4・3のもう一つの現場だ」と声をあげたい。いつまでも大阪の「済州4・3」を残すために。

 

次世代への継承

「済州4・3」を逃れて日本に多くの人が渡ってきたが、当時、民族学校の教師だった人が「済州島から逃げてきた子どもたちは地獄を見たのだ。目が死んでいた」と語ったことを思う。日本では、1949年に朝連(在日本朝鮮人連盟)大阪が追悼集会をした程度である。それは在日の済州人社会で大きな苦しみを伴うタブーだったからだ。50年代から70年代は南北の対立が在日同胞社会でも先鋭的で、ましてや「済州4・3」について民族団体の言及はほとんどなかった。「済州4・3」を世に訴えていたのは済州出身の1世の総聯系の知識人しかいなかった。鋭く政治的にならざるを得ない時代が、亡くなった方々の慰霊すら許さなかったのだ。

40歳から「済州4・3」運動を始めた私も還暦を超える齢になった。昔なら어르신(老人)だが、いまだに若いと言われるのは時代の流れか?しかし、私たちも次世代を育成しなければならない。数年前から3世の青年が事務局に入り、「済州4・3」の旅に行けるようになった。より多くの若者を連れて行くため、昨年はクラウドファンディングを活用してさらに7名が参加した。

マッチにわずかな炎を灯すように「命」をつないできた「済州4・3運動」は、今こそ次世代と共に歩まねばならない。

 

そして一つになること

最後に「済州4・3」は大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も成立する前に起こったことを忘れずにいたい。朝鮮半島が二つに裂かれようとするまさにその時に命をかけて立ち上がった人々がいる。ぎりぎりまだ「二つ」になっていなかったのだ、その時は。私たちは「一つ」であることを「済州4・3」から改めて感じ、学び、そして在日から発信していきたいと思う。