1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
パンソリ鼓手/脚本
趙倫子(チョ・リュンジャ)
2003年から2005年までの2年間を済州島で暮らした。済州大学校で日本語を教えることになったのだ。
私は大阪に生まれた在日韓国人3世だが、「済州4・3」については済州島で暮らすようになるまで全く知らなかった。「済州4・3」という言葉自体を聞いたことがなかった。両親ともにいわゆる陸地(ユクチ)(韓国では島に対して本土のことを陸地という)出身でしかも日本生まれであるため、そもそも済州島に対する知識がなかった。そういう意味では偏見すら持ちようがなかった。母が、「島流しの島…」と少し心配したようではあったが、それは実は当時放送されていた『大長今(チャングムの誓い)』を熱心に見ていたためであった。(主人公が師匠とともに罪に問われて流されたのが済州島だった。)つまり私と周辺の人々にとって済州島はそれぐらい縁のない、遠くにある場所だったのである。
さて、済州大学校に勤め始めてちょうどひと月が過ぎた頃のことだ。仕事を終えて官舎に帰る時、私はいつも学生会館を通る。そこには例えば「授業料引上げ反対」などを訴える壁新聞が張り出されたりすることはあったので、それ自体は見慣れた風景であった。しかしその日のそれはいつもとは違っていた。しばらく眺めていて気がついた。
その壁新聞には黒い縁取りがされていた。
「済州4・3」について書かれた新聞だった。
困惑した。小説か何かの紹介だろうか…?どうしてもこれが過去にこの島で実際に起こったこととは思えないのだ。そして、このように大きな事件でありながら、なぜ私はこのことを知らなかったのか。なぜ誰も教えてくれなかったのか。わからないことだらけだった。
休暇で日本に帰ってから、「済州4・3」に関する資料を探しては読んだ。その時初めて大阪に済州島出身者が多いこと、その理由が「済州4・3」にあることを知った。なぜあまり知られてこなかったか、ということについても知ることができた。話したくても、話せなかったのだと。事件の凄惨さ、不条理さに胸が痛んだ。
2003年10月には当時の盧武鉉大統領が済州島を訪れ、現職大統領として初めて謝罪をしている。しかし、それでも私の周辺で「済州4・3」について語られることはなかった。「済州4・3」のことを知っているかどうかを尋ねられたこともなかった。私が大阪から来た在日同胞ということから、もしかしたら気を使ったのかもしれない。結局、2005年に日本に帰国するまで、私は済州島の人々に直接「済州4・3」について尋ねることも話を聞くこともできなかった。そして今回「四月の物語」の公演のために訪れるまで、一度も済州島を訪れることはなかった。「済州4・3」をそのままにして、ただ済州島に遊びに行く、ということがどうしてもできなかった。済州島は私の心の中で抜けない棘になった。
帰国してから、パンソリ唱者の安聖民姉(オンニ)と知り合い、そして、学生時代に少しだけ打楽器を学んだことがあったことから、パンソリの伴奏をすることになった。パンソリは今では伝統芸能の一つとして大きなホールでも公演が行われることもあるが、そもそもは路上のものであり、生きていく上での喜怒哀楽を風刺とともに歌い語り、見物客と一体になって一つの場を作っていくものだ。パンソリに日々関わっていく中で、私たち在日同胞のこともいつかパンソリにしたいと思うようになった。
「済州4・3」70周年を迎えるのに合わせて、作品を作り、発表する機会をいただいた。済州島の済州4・3研究所主催の70周年記念行事として行われる証言集会のオープニング公演をさせていただくことになったのだ。決まったのが11月だったと記憶している。その時点でまだ一文字も書いていなかった。公演は3月末。間に合うだろうか…。しかし、やらなければならないと思った。学生会館の壁新聞で「済州4・3」を知ってからすでに14年が経っていた。この機会を逃したら、この先も何も作り上げることはできないだろう。そしてそんな自分自身を許せないだろうとも思った。
短い期間で「済州4・3」の資料を読むことは精神的に辛い作業だった。それは犠牲者や被害者と正面から向き合う作業でもあったからだ。すぐに涙が出そうになるのだが、そのたびに泣いてはいけないような気がして、涙を堪えるようになった。泣きたい時に泣けなかった人たちの話だからだ。誰かに自分のこの苦しい状況を話したいと思うのだが、話せなかった。話したい時に話せなかった人々の話だからだ。私が泣いたり話したりしても誰かに批判されることはないだろう。辛い気持ちを抱えきれずに泣いたり誰かに話してみたいと思ったりすることは自然のことで、それを無理に抑えようとすることの方が不自然なことだ。しかし、そんな当たり前のことが数十年に渡って許されてこなかった人々の話なのだ。泣くこと、話すことがとても安易で後ろめたいことのように思われた。泣く自由、話す自由が私を苦しめた。今までに体験したことのない孤独を感じた。しかし、資料を通して犠牲者や被害者に向き合い、かれらの悲しみや怒りにわずかながらも寄り添うことができた貴重な体験だった。亡くなった人々と生き残った人々、異郷と他郷、過去と未来、時間も距離も超えて一つになれるパンソリを作りたい、きっと作ろうと思った。
なぜ済州島にルーツを持たない私が、「済州4・3」を忘れることができなかったのか。私自身も実はよくわからない。自分には直接関係ないこととして生きていくこともできた。それは単に選択の問題で、どちらが正しいというものではない。しかし、犠牲者たちはどうだろう。選んで犠牲者になった人など一人もいないだろう。それならば、私も私と無関係のこととして生きる、という選択肢はないと思った。
生き残った当時の被害者たちが、長い時間を経て、私たちに貴重な証言をしてくれ、資料として残されている。「もう忘れてしまいたい」「もう何も話したくない」という一方で、あの日の記憶を誰かに聞いてもらいたい、どうかこのことを忘れないでいてほしい、そのような切実な思いが行間から伝わってくる。2003年の大統領の謝罪によって真相究明に一層の拍車がかかるのではと期待されたが、そうはならなかった。その後の政権ではむしろ停滞した。韓国語には「人を二度殺す」という言葉がある。「済州4・3」の犠牲者は政権が変わるたびに二度も三度も「忘却と無関心」をあおる者たちに殺されてきた。「何が変わるというのか」という周囲の無気力と無関心が彼らを傷つけてきた。あまりにも長い時間を経た今となっては、私たちがかれらを真に慰める方法はもうないのかもしれない。しかし、隠され、歪められてきたかれらの記憶を、パンソリを通じてこれからも伝えることで、「済州4・3」に寄り添い続けたいと思う。
初めて作ったパンソリのタイトルは付けるのに苦労した。「パンソリ済州4・3事件」「つつじの咲く島」…結局「四月の物語」といういささかシンプルすぎるようなタイトルに落ち着いた。一見して済州島とも「済州4・3」とも関係がないようなタイトルを付けたのは、「済州4・3」の名前を出さなくても、「四月の物語」が「済州4・3」のことだと認識してもらえるぐらいにたくさんの人に見ていただき、そして犠牲者を悼むことができる日が来ることを願ったからである。「四月の物語」が「私たちの物語」になる日が来るようにと。