1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
済州4·3研究所元所長
金昌厚
2018年4月3日、文在寅大統領は済州4・3慰霊祭に参加した。大統領は済州島民がこれまでの70年間「この地に春は訪れたか」という強い問いかけに対して、「済州に春が来ています」と自信をもって答え、「済州4・3の完全な解決」も約束した。
「済州4・3」70周年慰霊祭で追悼の辞を述べる文在寅大統領(2018.4.3.)大統領の追悼の辞は、遺族とこれまで済州4・3の真相究明を叫びながら熱心な活動を続けてきた済州4・3運動家にとって感激そのものであり、涙を流さない者はいなかった。大統領の話は続いた。大統領は我が社会の根本的な問題である理念の葛藤について語り、その解決方法について言及した。現在の済州4・3問題であれ、保守・進歩(革新)間の理念の葛藤であれ、「これから大韓民国は正義で公正な保守と、正義で公正な進歩が‘正義’で競争し、‘公正’で評価される時代にならなければならない。」大統領は文字通り、我が社会全般の「脱イデオロギー化」がこれから我々に何より大事であると明らかにした。
済州4・3については保守と進歩の評価がはっきりと分かれ、今でも済州島民には身を切るような痛みを伴う記憶として残っている。多くの人々が忘却を強要され、そうでない人々にも済州4・3は自然と忘却されるべき深い傷であった。記憶の抹殺はいたるところで行われ、済州島は共産主義者と関連づけられた島であって、人が気楽に生活できるところではなかった。しかし今はどうか?済州島はかつて馬が生きるところとしてみなされていたが、今や韓国人がもっとも住みたがる場所1位となった。大統領が話したように、済州島に春が訪れたからなのであろうか。
済州4・3真相究明の道のりは険しかった。島民弾圧と単独政府樹立に反対して立ち上がった済州4・3の大義が中央政府の弾圧により壊滅してから、済州島民は李承晩政権の発足以来40年余りを暗黒の中で静かに過ごさなければならなかった。そのようななかで済州4・3が再び日の目を浴びたのは、1987年6月抗争以降だった。1989年には済州4・3研究所が設立され活動が始まり、済州新聞の済州4・3取材班が「済州4・3の証言」の連載を開始した。済州MBCが初の済州4・3企画番組を放映した。それ以降2000年に済州4・3特別法が公布されるまで10年余りの間、済州島の市民団体、メディア、済州島議会など公共機関は力を合わせ済州4・3の真相究明に努めた。
困難も多かった。一部の済州4・3運動家は拘束され、政府の監視対象となり活動に制約を受けた者もいた。そして1992年、中山間地帯の小さな洞窟(タランシ窟)から遺体が11体発見されたことにより、済州4・3は依然終わりを告げていないことを世に知らしめた。だが政府は遺族に圧力をかけ、遺体を火葬し海にばら撒くよう強要した。その後も多くの困難が続いたが、済州島民はそれに屈しなかった。ついに1999年12月、4・3特別法が国会を通過した。
2000年1月の済州4・3特別法の公布以降、最も大きな業績は2003年に行われた政府の「済州4・3真相調査報告書」の発刊であった。その内容に不備があるため補完が必要だと、専門家は今もなお主張しているものの、報告書は今まで多くの肯定的な役割を果たしてきた。2003年報告書の発刊直後、盧武鉉大統領は済州島で遺族と国民に対して「過去における国家公権力の過ち」を謝罪した。この報告書は、「済州4・3特別法は無効」、「政府報告書を廃棄せよ」、「犠牲者として選定された者に問題がある」などの右翼陣営による止まない問題提起にも歯止めをかける一定の役割を果たしている。市民団体や遺族会のすべての活動がこの報告書に依拠し行われているため、特に問題はないと裁判所は判断したのであった。
済州4・3平和公園は2008年に平和祈念館の展示施設を開設し、済州4・3紀行者のダークツーリズムの場所となっている。済州島全域で済州4・3遺骸の発掘作業が進められ、今まで400体の遺体が発掘された。小説『火山島』の作者である金石範が済州島に来るたびに、心が乱されて胸中を吐露する、「済州国際空港の滑走路が目に入り飛行機が着陸を試みるといつも涙が先に流れる。あの滑走路の下にはいまだに発掘されていない遺体が残っているはずだからである」という言葉が自然と思い出される。済州国際空港では今年も第三の闇の埋葬地を発掘する作業が始まった。
そしてこれ以外にも有意義なことは多い。2013年8月に遺族会と警友会が和解し、2014年3月には政府が4月3日を国家追念日に指定した。
最近済州4・3に対する済州島での反応がとても良くなっていることは何より高く評価できる。過去には済州4・3の話を持ち出すことすらできなかった時期があった。しかし今は現場調査に出向くと遺族が進んで済州4・3を証言してくれる。70周年を迎えた今年、文在寅大統領の追悼の辞の一句一句に泣き笑った。
だが、やはり未完のことも多い。済州4・3の正しい名づけとさらなる真相調査、4・3特別法の改定を通した賠償·補償問題や、2005年の「済州島平和の島宣言」をより具体化させ済州島を真の世界平和の砦として定着させる課題も挙げられる。この過程で江汀海軍基地反対運動について考えてみると、いまだに済州4・3も、江汀海軍港問題も、理念の葛藤は解消されておらず、ただ水面下に沈んでいるにすぎない。
しかし、済州島民はこのような困難のなかでも「英慕圓」をつくり出した。涯月邑下貴里に位置する慰霊祭壇の英慕圓は新しい「和解モデル」として知れ渡り、現在多くの紀行者と研究陣を呼び寄せている。
英慕圓は2003年に下貴里発展協議会が官の支援を受けず自主的に下貴の住民すべてを対象に募金活動を行い設立した下貴里の慰霊祭壇である。ここには日帝強占期に抗拒して苦難に遭った抗日人士らと、済州4・3当時犠牲になったすべての村民(討伐隊に犠牲になった一般住民をはじめ討伐の先頭に立った軍警の犠牲者)、そしてベトナム戦争の犠牲者すべてを弔った。これは済州島において初の出来事であり、昔は理念の違いにより一般住民と軍警の犠牲者を一緒に弔うという発想はなかった。現在この英慕圓モデルは他の多くの町にも影響を与え、類似の慰霊祭壇が続々と創設されている。
だがこのモデルにも不備はある。今も右翼側が済州4・3犠牲者の名簿に入れられないと主張するいわゆる「武装隊の首魁レベル」については(済州4・3平和公園慰霊祭壇の位牌除外ケースと同じく)発展協議会が処理し犠牲者に含めていない。問題となる可能性を最初から排除したのである。現在この問題は日本の「済州島四·三事件を考える会」が「当時の犠牲者全員を済州4・3犠牲者として認めてこそ、日本での真の和解は始まる」と敏感に反応している事案でもある。
ここで最後に訊ねたい。文在寅大統領が想起させた済州の春はすでに私たちのもとに大きな足取りで近づいてきているのではないだろうか。