1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
名桜大学上級准教授
菅野敦志
2018年は、「済州四・三」70 周年であった。市民運動班では、2018年3月29日から31日にかけて、「済州四・三」記念追悼イベントに参加する初の海外合宿を、研究班メンバーである大阪市立大学・伊地知紀子が世話人となり実施した。研究合宿ツアー団参加者は、伊地知団長の他、班代表の外村(東京大学)、宮本(立教大学)、松田(神戸学院大学)、加藤(早稲田大学)、坂田(苫小牧駒澤大学)、菅野(名桜大学)の計7名であった(以上、敬称略)。
3月29日午後にメンバーは済州に現地集合した。現地では、伊地知団長の他にも、済州四・三研究所前所長・金昌厚さん、済州四・三研究所研究員・金兪廷さん、立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員の高誠晩さんがアデンドしてくださった。筆者にとって初の済州島訪問であったが、台湾の二・二八事件をめぐる和解が市民運動班で筆者に課せられているテーマであることから、この合宿で「済州四・三」記念イベントに参加し、学びを深めることを、合宿が決定したときから大変心待ちにしていた。
3月30日にまず訪れたのは、済州四・三平和公園と資料館であった。記念館は、第1館から第6館までの展示(①歴史の洞窟:プロローグ、②解放と挫折、③武装蜂起と分断拒否、④焦土化と虐殺、⑤後遺症と真相究明運動、⑥新たな始まり:エピローグ)で構成されていた。最初に、「碑文のない碑石」が展示されていたが、これは「四・三事件がいまだに正式な名称を得ていない歴史」であり、歴史化されるにはいたっていないことを示しているという。展示は非常に見応えのある内容ばかりで大変勉強になったが、特に、犠牲者の遺骨が発掘された跡地を再現した展示は非常に重苦しく、筆者にきわめて強い印象を与えた。
位牌安置所では、入口に設置してある墓石に合掌し、犠牲者の方々の冥福をお祈りしたうえで中へと進んだ。そこには円形の空間に14,000位余りの神位がびっしりと奉安されており、参加者は皆その膨大な数の神位に圧倒された。神位には名前が記載されているが、しかし、ところどころに名前の記載がないものも含まれていた。金昌厚さんの説明によれば、当初犠牲者として申請があり、神位を設置したものの、二重申請者であったり、その後の審査過程で政府側が認める「犠牲者」と認められずに取り除かれたりしたために名前がないものがあるのだという。高誠晩さんの研究から表現を借りれば、「刻銘されるのは、リアルな虐殺現場における死者の記録ではなく、『過去清算』の法制度が認める『犠牲者』としての公式記録」である。よって、そこからは、政府側からは犠牲者と認定できない「南労党済州道党の核心幹部や武装隊の首魁級等」の出身者は「保留」扱いとされてしまうのだという。犠牲者が「誰か」という線引きが政府側によって恣意的に行われていった、これら一連の経緯については、高誠晩さんの研究(高誠晩『犠牲者のポリティクス―済州 四・三/沖縄/台湾 2・28 歴史清算をめぐる苦悩』京都大学学術出版会、2017年)を参照されたい。
公園の奥に設置されていたのは、「行方不明者の墓石」であった。案内には、「犠牲者の中で死体を探すことができず、墳墓がない行方不明犠牲者3,429名を追慕するため個人別に標石を設置して犠牲者と遺家族を慰める場所」と記載されていた。広大な敷地に整然と並べられた墓石にただただ圧倒されるばかりであったが、これも高さんが言うように、犠牲者が公式に選定された結果としてのモニュメント群なのであった。
午後は、四・三慰霊祭前夜祭に参加した。在日コリアンのパンソリ唄者である安聖民さんによる素晴らしいパフォーマンスがあり、心を打たれた。その後、証言者との対談形式による体験談の紹介があった。筆者は韓国語を解さないため、韓国語での証言は聞き取ることができなかったが、人によっては、細かな状況について 語るとき、とっさに日本語による語りが混じっていた。それはむしろ、そうした証言者の語りに――準備されてきた語りではないことを伝える――非常に力強いリアリティを与えるものとして筆者には感じられた。日本語を解さない聴衆にとっては意表を突く場面だったはずであろうが、韓国語を解さない筆者にとっては、証言の一部を理解することができ、とてもありがたかった。と同時に、言語/コードスイッチングと記憶という、体験者の語りと身体性についても考えさせられる一コマであった。何より、当時の厳しい状況を必死で生き抜いてこられた方々の証言を直接聞くことができたこと、事件が起こった済州で実際に聞くことができたのは(証言者の皆さんにとっては、どれだけ語ることに慣れていても、辛い記憶を呼び起こす行為であることに変わりはないはずだろうし、それを思うと申し訳ない気持ちにもなったが)、きっとこの先もずっと筆者の記憶に残るであろう、大変貴重な機会となった。
3月31日の午前には、慕瑟浦(モスルポ)ソダルオルムに行き、警察署に予備検束されていた 252名が1950年6月に集団虐殺された場所を訪れた。遺族の方々がお供え物を捧げるなか、犠牲者の方々の冥福を祈り、「名誉回復鎮魂碑」に手を合わせた。同事件の詳細については、同碑の付近に建てられていた記念碑に、「事件の経緯」が英語、中国語、日本語でも刻まれていた。
その後、大静邑誌編纂委員会の梁信河さん(大静歴史文化研究会会長、百祖一孫遺族会顧問、民族統一済州道協議会諮問委員)からもお話をうかがうことができた。伊地知団長の通訳により、経緯について詳細な説明をうかがい、「百祖一孫之地慰霊碑」の前で手を合わせた。
この「百祖一孫」とは、「132人の祖先が同じ日の同じ時間に同じ場所で死に、骨が絡み合って一つになっているから、その子孫たちは全員が一つである」という意味でつけられ、1961年のクーデターの際に破壊され、後の1993年に再建されたものだという(藤本壮・高正子・伊地知紀子・鄭雅英・皇甫佳英・高村竜平・村上尚子・福本拓・塚原理夢「解放直後・在日済州島出身者の生活史調査(5・上)―高蘭姫さんへのインタビュー記録」『大阪産業大学論集 人文・社会科学編』第2号、2008年 2月、105-126頁)。雄大な済州島の自然景観を目にしながら、つい数十年前の この地で凄惨な弾圧と虐殺が繰り広げられていたことを想像すると、息絶えていった多くの犠牲者の方々も同じ風景を見ながら何を思っていたのだろうと、考えざるを得なかった。
最後に見学したのは、日帝時代に整備された飛行場として今もその遺構が残るアルトル飛行場跡であった。
1926年に建設が計画された同飛行場は、とりわけ1937年から始まった日中戦争において、ここから南京爆撃へと多くの爆撃機が飛び立ったという。飛行場周辺には畑が広がっており、のどかな雰囲気のなかにも歴史の重みを感じる場所であった。見学後、メンバーは空港に向かうなどして、現地解散となった。
今回、台湾研究に従事する者として合宿に参加し、多くの学びを得ることができた。「済州四・三」と二・二八事件の比較は重要であるが、それは、筆者がこのプロジェクトで二・二八事件をめぐる和解の担当となっているからだけでなく、両者の相違点に東アジアの相互理解と和解の問題の核心部分が垣間見えてくるからだ、とも考えている。
「済州四・三」は、事件が勃発した66年後、真相究明をめぐる運動から55年後の2014年に「四・三犠牲者追念日」が法定記念日とされたが、それまでには長い道のりをたどる必要があったという。同様に、1947年に起こった二・二八事件も、1987年に戒厳令が解除されるまでは事件を語ることはタブーとされ、1995年に国家元首として李登輝総統が初めて公式に謝罪し、1997 年に法定記念日(「和平紀念日」)となった。このように、この二つの事件を語ることが禁忌化されてきた過去は非常に酷似している。ただし、酷似しているとはいえ、両者がまったく同じ性質の事件として記憶され、共通理解と認識が継承されてきたわけでは必ずしもないことを今回の合宿を通じて感じた。
例えば、済州四・三平和公園の中に設置されている資料館を見学した際、ハングルで抗議メッセージが書かれたゼッケンを付けたある団体に遭遇した。どうやらアメリカの責任を問うようなメッセージが書かれていたようであった。だが、二・二八事件の場合、その責任を追及する際にあげられる名前は、陳儀(台湾省行政長官)、柯遠芬(台湾警備総部参謀長)、彭孟輯(事件時は高雄要塞司令、後に台湾省保安司令)などであり、そして、最高責任者として鎮圧に必要な派兵を許可した蒋介石である。また、戦後台湾を統治したのは中華民国政府であって、アメリカではなかった。よって、そこにアメリカの責任を追及する声を聞くことはほとんどない。他方、「済州四・三」は米軍政下において開始した事件であり、虐殺の時期は韓国政府の統治下だったとしても、アメリカ側の関与は明白であるとして、アメリカの責任が強く記憶されているようである。
また、「済州四・三」記念追悼イベントでは、「統一」の二文字をよく見かけたように思うが、この二文字も台湾での二・二八事件記念イベントでは見られないものである。中国で共産党側が主催する(国民党の圧政に抵抗した台湾人民を記念するための)記念イベントでは、二・二八事件と「祖国統一」が結び付けて語られるであろうが、台湾の二・二八事件記念イベントにおいて「祖国統一」が語られることはなく、少なくとも台湾で開催されるイベントでそのような連関性が想起されることはまずない。台湾での二・二八事件とは(外省人の犠牲者もいたとはいえ)、あくまで「中国の国家と軍が、不正の撲滅と自治を要求した台湾人を弾圧・虐殺し、それによって中国と台湾が異なる社会であるということを台湾人に自覚させた事件」として記憶されるイベントであり、そこでは将来的な「統一」を希求するという意図は皆無と言って良い。
それに対し、筆者が済州で参加した「済州四・三」記念イベントで受けた印象としては、同事件を記念する際に語られる「統一」はきわめて肯定的な意味合いを含むものであり、それは民族の全構成員が目指し続けるべき目標として掲げられている、と感じた。南北の民族は「統一」という共通の悲願を有し続けているものの、その「統一」にはアメリカの影がある――そもそもかつての「済州四・三」自体が、アメリカと大韓民国政府によって主導された弾圧・虐殺事件であること、現在の南北分断の責任はアメリカに帰せられる――というメッセージが含まれているような印象を受けた。
そして、事件が含む「長さ」についても差があると感じられた。「済州四・三」は1947年の三・一節発砲事件も含め、1948年の四・三武装蜂起から韓国政府樹立以降7年にわたり展開された一連の虐殺として把握される。一方、台湾では二・二八事件はあくまで1947年の春に生じた大衆暴動に対する弾圧・虐殺事件を指し、1950年代を通して続いた共産分子の摘発と弾圧は「白色テロ」として明確に区別される。要するに、二・二八事件は「台湾人の自治要求を拒絶し、虐殺した中国人」を記憶し、白色テロは「共産スパイ摘発によって生じた冤罪で多くの犠牲者を出した赤狩り」を記憶するものとして位置づけられる傾向にあるといえよう。
「済州四・三」のシンボルはツバキの花であった。イベントの参加者として、赤いツバキの花がデザインされたピンバッチをいただいた。他方、二・二八事件には独自のシンボルとしての花はないが、事件後に続いた白色テロの犠牲者もあわせて追悼する際には、「白色テロ」の語が生まれたフランスの王権派を象徴する白ユリが用いられる。ツバキと白ユリ、それぞれの花が思い起こさせてくれる過去の歴史――分断国家、虐殺、赤狩り、冷戦、民主化――は確かに似ている。しかしながら、それらの花がわれわれに示唆しようとしている未来のイメージは、似ているようでだいぶ異なるものなのではないだろうか。筆者にはそのように感じられたのであった。
※本合宿を企画・実施してくださった伊地知団長、現地で対応してくださった金昌厚さん、金兪廷さん、高誠晩さんには大変お世話になりました。研究班代表者の外村先生、他のメンバーの皆さんからも多くの学びと刺激をいただきました。この場を借りて心よりお礼を申し上げます。