1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
<要約>
*太平洋戦争中の各島々の戦闘で徴用されたコリアン兵の存在について硫黄島の例を提示する。
*日本兵や硫黄島市民の犠牲だけでなくコリアン兵の犠牲もあり、こうした事実を知る必要がある。
*米国資料とともに、日本側及び韓国側の資料や聞き取り調査やその記録とも合わせて総合的な調査をすべきである。
はじめに
ニチマイ米国事務所は、米国国立公文書館を中心に資料調査及び収集・公開・保存を通して、日本の官公庁、図書館や資料館、また研究所やメディアなどの各機関から必要とされる情報の提供に努めるとともに、貴重な資料を次世代に継承して行くことを目指し、米国国立公文書館を中心に資料調査、資料収集を行っています。
首都ワシントンDCを中心に、米国各地には貴重な海外資料があり、それらを各分野での調査や研究、また教育に役立てて頂くことも、世界各地の団体にも提案しております。
戦後から74年目を迎えようとしています。戦争を知らない私達の世代は、両親や祖父母からはそれぞれの戦争体験の話を聞いて育ってきましたが、それでもまだまだ知らないことがたくさんあるまま大人になってしまったのではないかと思います。私達スタッフが毎日通っている米国国立公文書館にはそのときの戦争に関する資料が膨大にあります。1939年の第2次世界大戦の勃発から1941年の太平洋戦争への突入、そしてその後の4年間にわたるすさまじい戦争経過があり、1945年8月の原爆投下を経てようやく戦後を迎える日本の様子についても、テキスト資料、写真資料、映像資料などのいろいろな媒体の資料が存在しています。もちろん、それらの資料はもともと他国のためではなく、あくまで米国としての、また米軍としての記録群なのですが、それでもそれらの記録資料から、当時の戦争というものがどのようなものであったのか、また各地域の戦闘の中で、日本側がどれほど凄惨な状況に追い込まれて最後まで戦わなければならなかったのか、それぞれの兵士がどれほど家族のことを思いながら必死に任務を果たそうとしていたのかといったようなことも垣間見えるようなものも多々あります。
そうした資料の中から、今回は硫黄島の戦いに関する資料の中の捕虜関係の資料に焦点をあて、硫黄島で玉砕された日本兵の方々の中には、コリアン兵の方々も含まれていたことについてご紹介をしたいと思います。こうした事実を知ることも日本と韓国との歴史的認識においての和解にささやかながらも貢献することができたらと思っています。「コリアン」という表現においては、いろいろ議論があるかと思いますが、現在の「韓国」と「北朝鮮」という国家が成立した以前の時代であるため、朝鮮半島の民族という意味としてその表現を使わせていただきたいと思います。
硫黄島の戦いは1945年2月19日の米軍の上陸から米海兵隊による攻撃は3月末まで、そのあとは米陸軍の第147連隊による掃討作戦が少なくとも6月まで続きました。日本軍側総勢約22000名に対して米軍側は総勢にして約10万以上の兵力をつぎ込むことになりました。最終的には1000名以上の捕虜となった兵士を除いてその兵力のほとんどが壮絶な戦闘の中で亡くなりました。米軍側も約7000名の戦死者、及び約20000名の負傷者を出し激戦地の一つとなりました。
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2 photos above: RG127 Records of US Marine Corps Entry A1-1051 Box133, National Archives at College Park, MD |
下記は米国国立公文書館の映像資料から静止画像を撮影したものです。この動画のキャプションには、硫黄島の戦いにおける一般的な光景というタイトルがついていました。米軍側の傷痍兵をダック車(水陸両用車)に乗せて船に運ぶシーンから始まり、日本海軍設営隊員として働いていたコリアン兵の捕虜の様子、米軍海兵隊員の墓地の様子などの映像が入っていました。米国公文書館には硫黄島に関する映像が約500本ほどあり、その中には、日本兵捕虜に関する映像も何本かあります。が、キャプションの中でコリアン兵捕虜を撮影したことが明確に記載されているものは今のところこの1本しかないので、この映像は貴重であると思いました。
4 photos above: “General scenes on Iwo Jima “: https://catalog.archives.gov/id/78629 , RG428 General Records of the Department of the Navy, Entry NPC, Film No. 8860, National Archives at College Park, MD |
日本海軍設営隊とは当時の日本海軍に属していた部隊で、主に飛行場をはじめ基地施設の建設を担った部隊でした。米国でも同様な部隊が海軍に属し、一般にはSeabee (Naval Construction Battalion)と呼ばれてきました。
当時の米軍側の戦闘記録の中には、この日本の海軍設営隊についての記載があります。米軍側の記録によると、日本軍兵力は、陸軍の第109師団をはじめとしてその兵力14443名、海軍の兵力7015名として総兵力は21458名と把握していました。その中の海軍兵力の中に、第204海軍設営隊が入っていました。米軍側はこの海軍設営隊兵力を1410名としていました。海軍設営隊は硫黄島の各地域に約200名から350名ずつ配備していたようでした。
4 documents above: Headquarters 5th Amphibious Corps Landing Force Iwo Jima General Staff Section Reports G2 Report from RG127 Records of US Marine Corps Entry A1-1051 Box 78, National Archives at College Park, MD
米軍がどんどん日本軍側を追い込んでいき捕虜を捕獲してきます。そうした状況に関する写真は多々あります。捕虜を捕獲した時点では米軍側はすべて日本兵として把握していることがわかります。
4 photos above: RG127 Records of US Marine Corps Entry GW Box 20, National Archives at College Park, MD
しかしながら、捕虜を捕獲後、彼らを収容所に連れて行ってからは、それらの捕虜を日本兵とコリアン兵とに区別をしました。下記の資料は、その収容所の見取り図です。またその資料とともに、捕虜の日課情報や日本語で書かれた収容所の規則もありました。米軍は、収容所において、捕虜を虐待したり殺害するようなことはしないこと、また米国では捕虜になることを恥とするような考えはないことなども明記されており、興味深いものだと思いました。
4 documents above: Headquarters 5th Amphibious Corps Landing Force Iwo Jima General Staff Section Reports G1 Report from RG127 Records of US Marine Corps Entry A1-1051 Box 78, National Archives at College Park, MD
硫黄島の戦いにおいてコリアン兵が全体として実際にどのくらいいたのかは定かではありません。日本の海軍の部隊の一つとして存在していた第204海軍設営隊は米軍側の記録では1410名としていることはすでに述べましたが、その部隊の中にどのくらいのコリアン兵がいたのかということも明確な情報はありません。しかしながら、尋問調書の中には、いくつかの手がかりがありました。個々のコリアン兵に対する尋問資料によって、設営隊の総数は異なり、約700名から約1500名までの回答がありました。そのうちコリアン兵は日本兵800名に対して200名という回答もあれば、その部隊のほとんどというものもありました。それらの個々の尋問をもとに米軍が日本兵の部隊情報をまとめたものがありました。
4 documents above: “Partinent facts extracted from Original POW Preliminary Interrogation Report on March 7, 1945” from RG127 Records of US Marine Corps Entry A1-1051 Box 114, National Archives at College Park, MD
それらの資料によると、第204海軍設営隊の総人数は1000名または1000名以上であったこと、またそのほとんどがコリアン兵であったこと、その部隊は6つの小隊分かれていたこと、その多くが海軍設営隊として1944年7月1日付けで発足する前にすでに硫黄島におり、民間労働者として働いていたこと、さらに第204海軍設営隊の総数の1000名ないし1000名以上のうちの500名は米軍による艦砲射撃や爆撃によってすでに戦死したことなどが記載されていました。コリアン兵が1000名ないし1000名以上であることが事実であるならば、約22000名の日本軍の総勢のうち、約5パーセントがコリアン兵であったことになります。硫黄島が戦場になる前の時代には、島民が1100名以上いたと聞いていますが、硫黄島の戦いに備えて、16歳以上の男性の103名は軍属として硫黄島に残り、戦闘を支えることになりました。こうした島民の犠牲とともに、コリアン兵の犠牲も多かったという事実をきちんと知ることはとても重要なことであると私は思います。
5th Amphibious Corps Landing Force G2 Periodic Report on 4/9/1945 from RG127 Records of US Marine Corps Entry A1-1051 Box 80, National Archives at College Park, MD
1945年の2月19日の米軍の硫黄島上陸開始から、主力の上陸軍であった米海兵隊による戦闘が終了した3月末までの間までに、日本側の戦死者はすでに21541名、捕虜は216名であり、その内訳は日本兵156名、コリアン兵60名であったと上記の米軍の戦闘記録には書かれています。海兵隊が硫黄島を去ったあとは陸軍の第147連隊が掃討作戦を担うことになりました。この掃討作戦では、まだ洞窟に立てこもっている日本軍に対して、海水を入れ、その上にガソリンを入れて火をつけるということも行われ、想像を絶するような凄惨な戦闘が続いていきました。そうした過程の中で、日本軍側の捕虜は合計で1000名を超えました。日本軍の勢力はもともと22000名以上でしたので、生き残った兵士が1000名以上ということはこの硫黄島の戦いがいかに熾烈を極めたかを物語っていると思います。
太平洋上の島々におけるコリアン兵について、硫黄島に関する米軍資料からご紹介しました。コリアン兵に関しての資料が大量にあるわけではないのですが、こうした資料に丁寧に目を通すことは重要だと思いました。多くの日本兵もまたコリアン兵や島民も皆、凄惨を極める戦闘を強いられて亡くなりました。硫黄島だけでなくそのほかの島々でも多くの方々が犠牲になりました。それぞれの戦闘の詳細や全貌を明らかにすることは決して容易なことではありません。しかしながら、米国国立公文書館に残る資料はもちろん、日本や韓国他に残っているかもしれない資料や、すでに時が遅いかもしれませんが、生き残りの方々の証言やそうした方々が残された記録の収集にもアクセスする努力をして、それぞれの戦闘がどのようなものであったのか、日本側の兵士たちはどのような状況に置かれていたのかを含めて、もっと総合的に真摯に学ぶ続ける努力が必要なのではないかと思います。私達はそうした人々の犠牲の上にたつ現在の社会に生きていることを自覚し、次の世代にも伝えていくようにしなくてはならないと思っています。そうしたことが国家間の歴史の共有に繋がり、ひいては共存や共生に繋がっていくのではないかと思います。