1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
白色テロ(中国語:白色恐怖)とは、フランス革命時に起源を有する語で、右派が強権的手段でもって左派を鎮圧することであり、戦後台湾では国民党による左派分子に対する鎮圧行為を指す。密告やスパイ容疑などで捕らえられ、冤罪で処刑された者も多数いた。
白色テロの前兆は、1947年の二二八事件に続いて、2年後の1949年に発生した「四・六事件」(1949年3月下旬に台湾大学の学生が共産分子の嫌疑がかけられ拘留された件で、台湾大学・台湾師範大学の学生が抗議デモを行い、4月6日に両大学の学生325名が逮捕された事件)にすでに見受けられた。この翌月に1987年までの38年間続く戒厳令が敷かれ、以降、東西冷戦下での反共政策を盾に、本格的な赤狩り(白色テロ)が展開していくこととなった。
1949年5月20日に台湾に戒厳令が施行されると、国共内戦に敗れた国民党は同年12月に中華民国中央政府を台湾に移転させた。1949年9月には「台湾省保安司令部」(1958年に他機関と統合して「台湾警備総司令部」となる)が設立され、1948年の「動員戡乱時期臨時条款」に加え、1950年の「懲治叛乱条例」・「戡乱時期検粛匪諜条例」制定を根拠として、左派分子や共産スパイの摘発を名目とした弾圧が繰り広げられた。白色テロは中央政府が台湾に撤退した1949年から1950年代中期までがピークとされるが、これは朝鮮戦争とほぼ重なる時期でもあった。
従来の研究では、1949年から1960年の間に反乱団体の摘発が100件、人数にして約2,000人が処刑され、死刑を免れた者も約8,000人が10年程度から無期懲役にいたる服役を命じられ、そのうち確実に共産党員であった者は900人ほどで、その他約9,000人は冤罪であったとされてきた。未だ公文書の完全公開は果たされていないものの、2018年度の時点において、戒厳令下で政治的迫害および人権侵害に関わる軍事裁判案件および人数の公的な統計には以下の3つがある。
①法務部による報告:戒厳時期における非軍人の軍事裁判案件は29,407件であったことから、人数は14万人から20万人の間(ただ、これらすべてが該当するわけではない)。
②2005年7月の国防部「清査戒厳時期叛乱暨匪諜審判案件」報告:軍事裁判で裁かれた者の合計は16,132人、死刑犯は1,226人。
③2012年の内政部主催公聴会での補償基金会による報告:補償金給付手続きに関連して各政府機関から受けた情報として、2005年に国防部からは23,360件、その他、法務部・国家安全局・国防部からの情報の合計は24,858件。
真相究明と被害者への補償については、二二八事件同様、1987年の戒厳令解除に伴う民主化を待たなければならなかった。弾圧の根拠とされた「懲治叛乱条例」は1991年に廃止され、内乱罪について定めた刑法第100条は1992年に修正された。戦後台湾における白色テロはこの時点で正式に終了したとされるが、公権力による弾圧という連続性を有するとはいえ、補償と名誉回復への歩みは二二八事件と異なるものであった。それは、中華人民共和国建国後に展開された白色テロは、共産スパイ摘発の過程で生じた冤罪により多くの犠牲者を出したとしても、内戦下の中華民国の防衛という、国家の安全保障政策において必要な措置であったとする国民党政権側の認識の前に、補償への対応が出遅れたからであった。被害者への補償に関しては、二二八事件の補償条例に遅れること3年、立法院における1998年の「戒厳時期不当叛乱曁匪諜審判案件補償条例」制定および同条例に依拠した「財団法人戒厳時期不当叛乱曁匪諜審判案件補償委員会」設置によって補償業務が進められることとなった。
白色テロの被害者およびその遺族による団体としては、「台湾地区政治受難人互助会」、「台湾戒厳時期政治受難者関懐協会」、「五十年代白色恐怖案件平反促進会」などがあるが、被害者の約4割は外省人であったとされることからも、事件の歴史的位置づけをめぐっては被害者団体間にも意見の相違があり、独立運動の原点と称される二二八事件と同一視できない。2000年には民進党への初の政権交代があったが、自身も1979年の美麗島事件にかかる裁判で反体制派の弁護を担当した過去を持つ陳水扁総統により、2004年に被害者とその遺族に名誉回復証書が授与された。二二八事件と同様、真の和解達成のために「移行期正義」の議論とその応用が重要視され(二二八事件の項目を参照)、2018年の行政院促進転型正義委員会の成立により、権威主義下における国家暴力と不正義に対する徹底的な真相究明が期待されている。
事件を記念する施設としては、初期の白色テロ被害者が埋葬された台北市の六張犁一帯に位置する共同墓地が2002年に「戒厳時期受難者紀念公園」として整備され、2008年には、台北市の総統府前に「白色恐怖政治受難者紀念碑」が設置された。なかでも重要なのは、「白色恐怖景美紀念園区」(新北市新店区)と「白色恐怖緑島紀念園区」(台東県緑島郷)の2カ所からなる「国家人権博物館」の設置(2018年)である。白色テロという国家暴力と人権蹂躙について、「国家」と「人権」の語を名称に冠して記憶する博物館としてはアジア初とされる。景美と緑島の両施設ともに、白色テロ時期に政治犯や思想犯とされた人々が収容された旧監獄を用いて進められる人権教育を通じて、事件の記憶化と和解の促進が期待されている。
菅野敦志(名桜大学国際学群 上級准教授)
関連キーワード:二二八事件、四・六事件、戒厳令、移行期正義、国家人権博物館
参考サイト
主要参考文献
何義麟『台湾現代史――二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』平凡社、2014年
蔡寛裕「從二二八到白色恐怖――談国家暴力与転型正義」『新世紀智庫論壇』第81期、2018年3月、17-21頁
蘇瑞鏘『白色恐怖在台湾――戦後台湾政治案件之処置』新北市:稲郷出版社、2014年