1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
京に住む若い侍が、主家の没落により困窮し、妻を離別して遠国の国守に仕える。出世のため良家の娘と再婚、しかし新妻は冷酷でわがままで、侍は自分がまだ最初の妻を愛していることに気付き、自責の念に駆られる。国守の任期が終ると、後妻を親元へ帰し、京へ急いだ。家は荒れ果て、人の住む気配がなかったが、妻の居室からは明かりが漏れており、ふすまを開けると、彼女は行燈の陰で縫物をしている。若く美しく、思い出の中の彼女のままであった。侍は赦しを乞い、「これからは一緒に暮らそう」と、夜明けまで語り明かした。一眠りして目を覚ますと、朽ちかけた板床の上に寝ており、横に寝ていたのは女の屍だった。
これは『今昔物語』を典拠として、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn, 1850-1904)が英語で「再話」したThe Reconciliation(邦訳「和解」)の梗概で、罪びとの自悔、謝罪、赦しという、「内面的和解」の典型的事例と言えよう。もっともそれは、(『蝶々夫人』のPinkerton同様の)身勝手だった男のwishful thinkingの主観の中だけで展開したもので、死んだ妻が本当に「赦した」のかどうかは分らない(もっともハーンは実際に幽霊があの世から会いに来たと信じていたという観方もあるようだ)。
これは「一方が謝り、他方が赦す」という道徳的非対等者間の和解の事例であるが、内面的悔悟を必ずしも伴わない象徴的謝罪行為としては、土下座や(最近では)テレビ画面で責任者たちが並んで頭を下げるなどいう儀式もある。
「謝罪による和解」の最近の事例としては、三浦弘行九段に対する将棋連盟の謝罪がある。将棋連盟が、将棋ソフト不正使用の疑惑に基づき、不充分な調査をもとに、三浦氏に竜王戦を含む公式戦出場停止処分を科した。ほどなく結成された第三者委員会が「不正行為認定に足りる証拠はない」と認定、谷川浩司会長以下将棋連盟の責任者数名が辞任。新任の佐藤康光会長が三浦氏に謝罪、同氏と和解し、損害賠償を支払った。告発者渡辺明竜王等も三浦氏に個人的に謝罪した。
対等者間の和解の儀礼は、西洋化した現在では「握手」が代表的なものであるが、やくざなどでは「手打ち」「手締め」があり、これは『魏志倭人伝』の「見大人所敬、但搏手以當、脆拝」にまで遡る古い習俗を伝えている。また「禊」(みそぎ)は、「みそそぎ」(身滌・身濯)、即ち自分に付着した穢れを水に流す行為であるが、対立当事者が共に禊をすることで怨念や復讐心を流す和解の象徴ともなる。
対等者間の紛争において当事者が和解を求めるのは、紛争のコストを避けるという動機がある。戦況が不利で、停戦が遅れるほど損害が大きくなり、「背に腹は代えられない」と休戦を求めるのは、過大なコストによる。紛争が当事者の主観において正義の追求であるならば、「一億玉砕」を避けて、コストへの考慮を正義に優先させるのは、カント(Immanuel Kant 1724-1804)が敵視する功利主義倫理学ということになる。彼は「正義をなにがしかの代価によってみずからを売り渡すならば、正義であることをやめる」、国家が解散するのは最後の殺人犯人を処刑した後にすべきだ、と言っている(「人倫の形而上学」『世界の名著 カント』加藤新平・三島淑臣訳、pp.474-6)。カントの正義は同害報復の応報刑である。
ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering, 1819-1892)の小論『Rechtのための闘争』(Der Kampf ums Recht, 1872)が、英国人大陸旅行者のエピソードとして描き出すのは、まさしく「紛争のコスト」という発想の否定である。彼は宿屋に小銭を欺し取られたりすると、滞在期間を伸ばし、その何倍の費用をかけても、その被害を回復しようとする。これは彼にとって賠償が単なる打算の問題ではなく、Recht(権利・法・正義)の問題だからだ、と。
この話の面白味の一つは、「コストを無視しても正義を貫徹する」というカント的正義原理主義と、正義を効用に従属させるベンタム(Jeremy Bentham 1748-1832)流功利主義の法意識の対立において、英国人紳士の行動がむしろカント的・ドイツ的であり、それを嘲笑するドイツの民衆の方が英国的であるように見えることである。これはあるいは、国境を越えた西洋貴族と西洋庶民の法意識の相違の問題かもしれない。
和解における、土下座や握手のような外形的な行動によっては、内面に蓄積された憎悪が清算されることは困難で、やがては一時抑制された復讐心が噴出する危険がある。そこで国家によって「忘却令」が発せられることがある。紀元前403年、一世代に亘ったアテナイとスパルタの間のペロポネソス戦争が終ったが、この戦争はアテナイの内訌を随伴しており、その両勢力の和解に際して「悪を想起しないこと」(me mnesikakein)が約束された(Xenophon, Hellenika, II,iv,43; Aristotle, Athenian Constitution XXXIX, vi)。
1660年、ピューリタン革命後の王政復古に際して、英国議会はThe Indemnity and Oblivion Act[免責・忘却令]を制定した。これは(一部の例外を除いて)革命期間中の不法行為(injuries)を「忘れるべきだ」(should be forgotten)と定めたもので、寛容による和解政策をとった新王チャールズ二世(1630-85)の了解下での立法である。
第二次大戦後、和解の提唱とともにこの忘却令のことを歴史から発掘した一人はカール・シュミット(Carl Schmitt, 1888-1985)であったが(“Amnestie, oder die Kraft des Vergessens” (1949), Staat, Großraum, Nomos, 1995, pp.218-9(Amnestieは記憶(mnemos)の否定形である))、「ナチ時代反ユダヤ主義や東欧侵略の旗を振ったシュミットが、その敗北後『忘却』を要求するのはムシが良すぎる」というのが一般的印象だったと思われる。
むしろ紛争時の集団心理としては、三国干渉時の「臥薪嘗胆」といい、「21箇条要求」の「国恥記念日」といい、日米戦争の「Remember Pearl Harbor」といい、「忘れるな」という標語の方が一般的であろう。民族的正義感などを背景とする怨念や復讐心を法律で抑止することは困難であり、特に国際社会においては、屡々それらこそが民族や国家のidentityの核心である。
国際平和への最大の脅威の一つは未回復領土(terra irredenta)回復運動であり、英文Wikipediaで”irredentism”の項目をアルファベット順に見ていくと(括弧外が主張国、括弧内が対象地域)、Afghanistan(Pakistanの一部)、Albania(Serbia、Montenegro、Macedonia、Greeceの一部)、Argentina(英国Falkland島)、Armenia(Georgia、Azerbaijan、Turkey、Iranの一部)、Austria(South Tyrol)、Belarus(Poland,、Lithuania、Russiaの一部)、Azerbaijan(Iranの一部)、Bolivia(ChileとBrazilの一部)、Bosnia & Herzegovina (Montenegro、Serbiaの一部)、Bulgaria(Macedonia、Romania、Serbia、Greece、Turkey、Albaniaの一部)等々、とZまで延々と続く。我が日本の北方四島要求もリストに載っている。これらは国際紛争の休火山である。
和解にとって重要なのは第三者の態度である。カール・マンハイム(Karl Mannheim, 1893-1947)は、一農村青年が都市に出ることによって、従来自明で絶対的なものと感じていた農村的思考・行動様式を、外から距離を取って見る(distanzieren)ようになり、従来の視野(Perspektive)を、より広い視野の下に包摂するようになる、これが知識社会学の端緒である、と言っている(“Wissenssoziologie”, Handwörterbuch der Soziologie, 1931, p.666)。そして樹木のように視野が特定の場に拘束された民衆に対し、鳥のように樹々を飛び渡りつつ諸視野を統合する「自由に浮動する知識層」(freischwebende Intelligenz)こそ知識社会学の担い手であるとした(Ideologie und Utopie, 1929, p.135)。
学問論はともかく、紛争当事者たちの視野を包摂する視野に立って、それらを統合する位置にある中立的第三者は、この知識層の役割を果し、その視野から両者に助言し、警告することができ、更に実践者として和解への調停者の役割を果すことができる。国際連盟・国際連合等の国際機関は、この第三者の和解への役割を制度化したものともいえよう。
第一次世界大戦において英米仏を味方として独墺と戦った日本が、二十年後の第二次大戦において独墺を味方として英米仏と戦ったのは、日中対立において英米仏の支持を得られなかったからである。この敵味方の逆転が外国のみならず、多くの日本国民の支持を得ていなかったことは、テロリズムによる多くの日本人指導層暗殺の事実からも、また戦後日本の敵味方再転換が、円滑に進行したことからも知られる(それでも対独転換が成立したのは、「昭和ポピュリズム」の風潮に多くの民衆が流されたからである)。
第一次大戦の戦死者1600万人、第二次大戦は5000-8000万人、現在でも戦争・内戦による死者は毎年数十万人と言われており、それらがまた憎悪や怨念を蓄積させている。このような状況の下で、「普遍的和解」(universal reconciliation)という標語を掲げる宗教団体も色々あるようだ。当面筆者のような世俗派が考えることは、闘争の場から人類を導き出す情念としてホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679)の挙げた「死の恐怖」「快適な生活の必需品を求める願望」「それを勤労によって獲得しようとする希望」という平和的情念を助長すること、またホッブズが闘争的情念として挙げた「自己欺瞞的自尊心」(vain glory)を抑制し、相互の相違を冷静に再検討する自制と寛容を助長することであろう。かつてある日本の政治家が掲げた「寛容と忍耐」という精神は、人類史を和解に導く標語ともなるのではあるまいか。